ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。

『羣青』のメガネさんが風邪を引き続けた理由

一年と少し前、『羣青』という漫画について、僕は感想文を書きました。読み終えた勢いそのままに(けれど最終巻が発売されて間もない時期だったためネタバレを避けつつ)書いたので、内容にはほとんどふれずに、その作品が僕にもたらした経験と、「この物語に関わる手段が『漫画』でよかった」ということだけを記しました。

 その感想文に「この作品は下巻・P532‐533の見開きのためにあった。彼女にこれを言わせるためにあった」と書いています。「彼女がそれを言った」という結果によって深く心を動かされたわけですが、同時に「どうやって彼女にそれを言わせたのか」という過程の巧みさにも感動していて、だから今回は彼女にそれを言わせた要因のうち、特に重要で鮮やかだと思っている「メガネさんが風邪を引いたこと・それに伴うコートの行き来」という点について、ある程度内容にふれつつ思い出してみようかなという次第です。

 

◆上巻終盤の「知り合わなきゃ、絶対幸せだったのに~…」のホテル。レズさんが自首を決心したため、ふたりはお互いに宛てた手紙を書いて、バッグや有り金のすべて(正確にはほそのほとんど)をベッドに投げ捨てホテルを出る。そして「警官と踏切」のシーンを経て、雨の隅田川のほとりを傘もささずに、メガネさんは靴も履かずに徘徊することになる。メガネさんが風邪を引き、レズさんは公園で拾った10円玉で、兄ちゃんに自分たちの居場所を知らせる。彼らを待つ間、レズさんは体調を崩したメガネさんに自分のコートを着せて……。

ふたりを無一文にして雨のなかを歩かせ、メガネさんに風邪を引かせました。体調を崩した彼女が「布団で寝たい」とこぼしたことが、レズさんに兄ちゃんへ連絡させることを後押ししたのかもしれません。手を取りあえば暖まるかもしれないと、互いの手を握ってみても「どっちの手も冷たいと…、冷たいのがうつるだけ」で、その行き止まり感も兄ちゃんという第三者の登場を助けます。同時に、レズさんからメガネさんへの一回目のコートの移動が完了します。

 

◆レズさんが兄ちゃん家族と話す間、メガネさんは兄ちゃんの車のなかで待たされ、濡れたままの服は彼女の風邪を悪化させる。兄ちゃんの家族とともに入った旅館で、またひとり待たされながら、コートのポケットから自分がレズさんに宛てて書いた手紙を見つけ、それを部屋のゴミ箱に投げ捨てる。そしてズボンのポケットから取りだした500円玉と50円玉をもてあそび、それをなんとはなしにコートのポケットにしまう。メガネさんはコートを脱いで布団に入り、眠る。レズさんは兄ちゃんと「大事な話」をするために、彼女の脱いだコートを羽織り外へ出る。彼女さんの死と指輪を受けとったレズさんは、ひとりで歩いて旅館へ戻る。その道すがら、コートのポケットに550円を発見し、なにも食べていないメガネさんを思い、期間限定で250円になっている得々弁当のほうでよろしかったレズさんはそれを550円からで購入し……。

レズさんには待っていてくれる家族がある、帰るところがあることを知った今、彼女にそれを読まれるわけにはいかなくなったから、メガネさんは自分の書いた手紙を捨てました。そして、先ほどのホテルでも手放せなかった500円玉と50円玉を、10年近く前にレズさんから手渡された500円玉と50円玉を、「対等の証」として手放すことのできなかった500円玉と50円玉をもてあそびます。焦がれていた暖かい布団に入り、けれど、自分とレズさんの境遇の違いと、縋っていた550円の軽さに「あのまま二人で寒かったほうが、ずっと良かった…」と、メガネさんは涙を流しながら眠るのでした。そして、手紙のかわりに550円の入ったコートがレズさんに戻ります。550円を無一文のレズさんに渡し、お弁当を購入させることで、メガネさんの「対等の証」を失わせました。

 

◆まだ眠っているメガネさんに得々弁当を届けた後、レズさんはコートのポケットに入れたはずの手紙がなくなっていることに気がつく。部屋に戻ると、メガネさんによって床に捨てられたお弁当を目のあたりにし、それを片付けながら、ゴミ箱に捨てられた自分宛の手紙を見つける。メガネさんはレズさんの指にはまった指輪を見とがめ、激しくも静かな口論となり、レズさんは指輪を旅館の池へ投げ捨てて……。

550円の所以や彼女さんの死や指輪の由来や互いの真意や立場がわからないまま、しかし汚れた手でコートにふれないようにというような気遣いをなくさない冷静さを保ったまま、怒りや意地や情けやお弁当をぶつけ合うふたり。素直になれないのはあんたが向き合ってくれないから、向き合えないのはあーたが素直にならないからと、口論は堂々を巡ります。レズさんに宛てた手紙は本心であるとしながらも、それは義務感から来たものだと、殺人を頼むより簡単に言えると、「あんたに嫌々抱かれるよりも、よっぽど簡単」だと言うメガネさん。「誰といてもひとりぼっちになっちゃうあーたへの、最後の、同情で」指輪は拾い物だと言い張ったまま池へ投げ込みながらも、彼女さんからもらった指輪を捨てるなんてことを「あーたなんかのために」はしないと言うことで、指輪は拾いものだという嘘の強度を上げるレズさん。居たたまれません。

 

◆レズさんの兄嫁さんから彼女さんの死を告げられたメガネさんは、池に飛び込み指輪を探す。さらに風邪を悪化させ、池の辺で倒れてしまう。メガネさんは兄ちゃんによってレズさんの眠っている部屋に運ばれ、濡れた服のかわりにレズさんのコートを着せられる。メガネさんは、コートのポケットから550円でお弁当を購入したレシートと、つり銭の300円を発見し……。

風呂あがりに寒空の下で池に飛び込むというこの行為が、またしてもメガネさんの風邪を悪化させます。コートが再び、メガネさんに渡ります。「家族」から不幸しか生まれなかった人間が、「家族」をささやかな幸せだと思って生きてきた人間から、「家族」に対して、「小さな幸せ」に対して感謝を促されたり、という時間が流れます。レズさんの言うように、「この時間よりももっと重苦しい時間の過ごし方」は僕にも想像できません。レズさんは、メガネさんを「かわいそう」だと言い切ります。「同情は優しくないと思ってた」レズさんは、「この人どーにかするには同じ目線に立ってたらダメなんじゃないの!?」と気づいて、「かわいそう」だと言い切ります。メガネさんは、その見下した同情に悔しさを覚えながらも、「私が長年誰かに求めてきた理解みたいなものは、あれだったのかも知れない」と後に思うのです。

そして、コートはメガネさんが着ています。ポケットからお弁当を買ったつり銭の300円を見つけ、長年手放せなかった500円玉と50円玉を失ったことを知り、メガネさんは「……そう…」と頷きます。「同じ目線に立ってくれた」以前のレズさんから受け取った550円を、つまり「対等の証」を失い、「……そう…」と頷きます。レズさんからメガネさん、メガネさんからレズさん、そしてまたレズさんからメガネさんというコートの移動を経て、このシーンへ辿り着きました。レズさんがメガネさんのことを「かわいそう」だと理解するのと同時に、メガネさんは「対等の証」を失います。レズさんの同情を、メガネさんが受け入れるために。

 

◆その後、旅館から逃げ出した彼女たちは「ここから二人だけでやり直すために」、昨晩兄ちゃんたちと合流した公園に戻る。そして、「これから先」を決めるための阿弥陀籤でレズさんが当たりを引いたため、ふたりだけで泊まった旅館で汗をかいたまま裸で眠る。メガネさんの風邪は声も出ないほどの症状になってしまい……。

メガネさんが風邪を引き続けた理由。冒頭に書いた「彼女にこれを言わせるためにあった」というのはレズさんとの会話の一片ですが、メガネさんの声が出ないため、それは筆談で交わされています。阿弥陀籤をした用紙の裏に、声の出るレズさんも「なんとなく」一緒に、サインペンで会話をします。続けるうちに、だんだん書くところがなくなってしまい(これはメガネさんが例の300円でのど飴を買いに行った昨晩の旅館の売店で見つけた魔除けのお面について、「まよけが1800円で売ってた! (売れてます)」などと書いて笑い合っていたせいなのですが、この後の展開に向けて書くスペースをなくす必要があったためで、だからこれも無一文のメガネさんが300円を得て売店に行けたことで魔除けを発見できたという「コートの流れ」の一端なのですが、なぜなら)雨の隅田川で「どっちの手も冷たいと…、冷たいのがうつるだけ」だったのは「すぐ、離したからかも」と、再び自分の手を握るレズさんの手の甲に、メガネさんはその言葉を書くのです。それが「下巻・P532‐533の見開き」です。

 

どうでもいいことや、言わなくてもいいことはふと口をついてしまうくせに、ほんとうに伝えたいことを、喉を震わせて声として発する気力や体力を振り絞ることのできないことがあるのはどうしてだろうと、たまに考えます。

メガネさんというキャラクターも、もしもこのシーンが筆談じゃなかったら、これだけの理解や無理解や同情や暴力にさらされてなお、いや、むしろそういうものにさらされながら生きのびてきたから、あの言葉をレズさんに対し、発声して伝えることはできなかったのではないかと思っています。だからメガネさんはずっと風邪を引いていて、最終的に「声も出ない程悪くなった」のだと思っています。声を出すことができないから、メガネさんはレズさんに伝えることができたのだと思っています。

『羣青』のメガネさんは、コートを着ているときに、とくに「かわいそう」だったと感じています。けれど、それはレズさんが傍にいるための、メガネさんにあの言葉を言わせるための仕組みのひとつでもありました。両手を差し出すふたりを描いた最終ページ、コートを着ていたのはメガネさんでした。

 

ということで、メガネさんが風邪を引いていたのは物語の進捗を担うコートの移動をスムーズにするため、そして最後にあの言葉を言わせるためだと考えていますというお話でした。

ところで、メガネさんは上巻終盤でメガネを壊しているので物語の3分の2以上メガネさんじゃないことに気づいたのですが、メガネさんはメガネをかけていなくてもやっぱりメガネさんで、そのメガネさんのメガネさん力(りょく)がどこから来ているのか気になるので、次回はその謎に迫ってみたいと思います。

あとですね、メガネをかけた美人さんに告白してキツめにフラレてそれでも告白し続けて5回目か6回目くらいで「フッ」と笑いながら「めげないわね」って言われるやつやりたいので誰かお願いします。