ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。主に漫画の感想です。

『人生は二日だけ』だとしても

人生は二日だけ (リュウコミックス)

人生は二日だけ (リュウコミックス)

 

よくある自問。「私はなぜ生まれてきたのか」。思うところはあるのだけれど、ときによって違ったり、ときには複数だったり、これだという答えをまだ見つけられずにいる。思うところはあるのだけれど。

  

堤谷菜央の初単行本となる『人生は二日だけ』。月刊COMICリュウの新人コンペ「第12回龍神賞」で、リュウが創刊されて以来初めて「金龍賞」を受賞した作品となったデビュー作「バースデイ」ほか、ある姉弟の暮らす部屋に突然現れた少女との交流を描く表題作「人生は二日だけ」、兄の幽体に手を差し伸べたことから”お兄ちゃん憑き”となった少女を描く「兎の生る木」、”シューカツ”や親の再婚に翻弄される少年と少女を描く「ライトナイトライト」など、全6篇が収録された短編集。

今日の漫画としては細かく割られたコマで組み上がるページと、懐かしさを覚えずにはいられない筆致が、容易にとある時代の少女マンガを思い起こさせる。といって、単に懐古を主義とした作品というわけではない。各話に登場する見開きのページから受ける印象が、とある時代のそれとはとくに違う。

 

とある時代の少女マンガの見開きに描かれていたのは、想像力の解放だった。胸の奥底に淀み、けれどそれがなんなのかよくわからなかったものたちを掬い上げ、代弁した。一方で『人生は二日だけ』の見開きに描かれるのは、想像力の帰結だ。なにかを求めたり、なにかから逃れようとしたことで果たされたこと、あるいは果たされなかったことが、率直に描かれる。

率直に描かれるというのは、生じてしまった転じようのない結果が、仕方のないこととして描かれるということだ。「人生は二日だけ」で奪われたもの、「兎の生る木」で別れた誰か、「ライトナイトライト」で打ち拉がれた無力さ、「BIANCA」で失われた記憶。これらは、すべて仕方のないことである。どうして仕方がないのだろう。それは、彼らが人間として生まれてきたからだ。率直に描かれたすべての結果は、ここに起因する。人として生まれてきてしまったからには、これはもう、仕方がないのだ。

そうして彼らは、仕方のないことを仕方のないことであると受け入れる。そして、仕方がないことばかりの人生においてひとつだけ、自分の成すべきことを思いつく。誰かのことを、忘れないこと。

 

「私はなぜ生まれてきたのか」。『人生は二日だけ』を読み終えた今、この問いに対して「誰かのことを忘れないため」、あるいは「忘れたくない誰かに出会うため」と答えるかもしれない。僕の生を肯定するのに、誰かの生を費やすことになってしまうけれど。

私が私で在ること その上で あなたを思うことは
果たして 罪なのでしょうか

 

(堤谷菜央『人生は二日だけ』 P156)

 「バースデイ」冒頭の一節だ。この言葉で始まる物語の結末を、作者は”バッピーエンド”と呼んでいる。

望まれた生だったのかもしれないが、けっして自ら望んで生まれてきたわけではない僕たちは、初めから仕方のない存在だ。仕方なく生まれてきた同士で、仕方なくお互いの生を見届けようとするけれど、あなたのことを思おうとするけれど、僕が僕で在る限り、その僕が思うあなたは「あなた自体」ではなく、あくまで「僕が思うあなた」だ。

あなたのことを思いたいように思うし、そしてそれは僕自身のためだし、だから無責任に誰かの誕生日を祝ったりもする。僕にとってはハッピーでも、その誰かにとってはバッドかもしれないのに。

でも、そのかわり、もしも自分のハッピーのために僕のことを思おうとする誰かがいるのなら、僕を忘れないようにする誰かがいるのなら、それを受け入れよう。それが僕にとってバッドでも。お互いに、ハッピーでバッドな人生を見届け合うのだ。

 

僕が僕で在りながら、その上で誰かのことを思うこと、誰かのことを忘れないこと。それらはきっと罪なのだ。だから罰として、この仕方のない人生を生きる。できれば誰かとともに。バッピーエンドを目指して。

『人生は二日だけ』を読んで、そんなことを考えた。