ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。

『ノストラダムス・ラブ』イズ・オーヴァー

1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってきて、地球は滅亡する――。

幼少時からノストラダムスの大予言にふれて育ち、「あたしが19歳になったら、せかいがおわる。しぬ。」と思い込んでいる村山桜は、1999年、大学2年生の夏休みをむかえていた。世界の終りまであと10日足らずとなった日、桜の住むアパートの隣人である森に交際を申し込まれ、「世界の終わりを一緒に迎える人」として、彼と付き合うことになる。

しかし、大予言のとおりに19歳で世界は終わるのだから、「将来のことなんてなんにも考えられずに来た」桜は、なにに対しても興味を持てず、その居ずまいは森にも伝わり、彼との交際は、どうにもままならない。

これまでの人生において「めんどくさいことからは逃げてきた」という桜は、気を悪くさせてしまった森との仲直りのしかたもわからず、そういう自分と人生に価値を見い出せずにいた。

しかし森からある言葉をかけられ、そしてある人の死に立ち会い、自分の気持ちの所在を知り、7月31日の深夜に、「8月1日」に行われる野外フェスへ向かう道すがら、その自分の思いの丈を森に対して打ち明けるのだった。

 

90年代の後半、僕も桜や森のように、中村一義の『金字塔』や、サニーデイ・サービスの『東京』や、フィッシュマンズの『空中キャンプ』を、それこそ何百回と聴いた。けれど、それらについて語り合うことのできる人というのは、僕のまわりにはほとんどいなかった。

VHSに録りためたTVアニメ版『新世紀エヴァンゲリオン』を、何回も何回も観た。けれど、それついて語り合うことのできる人も、僕のまわりにはほとんどいなかった。

まだインターネットも普及していたかった当時、なにかについて話したいと思ったとき、その相手は実際の知人のなかから探し出すしかなくて、(僕という個人の交友関係の狭さにも起因していたとは思うけれどうるせえよ)見つからなければ、それについて一切語り合うことができないという小さな世界に暮らしていた。

ノストラダムスの予言についても同じで、たとえば最近の「2012年マヤ暦滅亡論」のように、ネット上で広く意見を目にしたり、SNSで冗談を言い合ったりしながらその日をむかえることはできなかった。

誰かに話すという行為は、その思いを撹拌して希釈する。語ることのできない思い、つまり当時の僕や桜の「死への恐怖」、「不明への恐怖」は自身のなかに滞留し、その濃度と純度を上げ続けるしかなかったのだ。

 

森に対して自分の思いを打ち明けた桜は、彼とともに8月1日を迎える。ご存知のとおり、1999年で世界は終わらなかった。しかし桜にとってのせかいは、ノストラダムスの大予言のようにではないけれど、やはり1999年の7月で終わっている。それまでの「すべてが滅する」という大予言に裏付けられた桜のせかいは幕を閉じ、1999年の8月1日以降という、今まで想像することのできなかった、まったく新しいせかいを「生きてる!」のだ。

そうして、ノストラダムスと桜の蜜月の日々は終わりを告げる。桜は新しい世界を、ノストラダムスがいなければ知ることのできなかったかもしれない新しい世界を生きる。ノストラダムスに別れを告げて。

さようなら、愛しのノストラダムス。