ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。主に漫画の感想です。

『かわいそうな真弓さん』を読んで僕とダンス!

かわいそうな真弓さん(リュウコミックス)

かわいそうな真弓さん(リュウコミックス)

見たことのない構図で描かれた、ここではないどこかとしての世界。ときに歪んだデッサンで過剰にデフォルメされた、僕らではない彼らとしてのキャラクターたち。西村ツチカの創りだす世界とソコで暮らす人々は、一見してこの世界とココで暮らす人々とは別であると感じられる。

「見たことのない構図」が読者のそれとは別の世界を表現し、「歪んだデッサンと過剰なデフォルメ」が別の人々を際立たせ、だからこの作品には不安がつきまとっている。

読み進むうちに、ソコで暮らす人々の機微に触れる。別であると感じられた世界や人々を、自身のなかに受け入れたい、あるいは受け入れがたいと考える。彼らを愛しいと思い、あるいは不気味だと思う。

この作品に登場する彼らや彼らが住むソコが、歪んでいる別の世界であるならば、彼らにとっての僕や僕の住むココもまた、歪んでいる別の世界である。彼らは、僕を愛しいと思うだろうか。不気味だと思うだろうか。彼らから見た僕の世界は、やっぱり不安なのだろうか。


「夢に似ている」と言われそうなこの一冊の冒頭に、「ねむり姫」が据えられていることを気にしてみる。「ねむり姫」は、最初のページから最終ページの一コマ目まで、すべて青木さんの夢の中のできごとであるように見える。いずれにせよ、最終ページ一コマ目で青木さんは目覚めている。「ねむり姫」は、目覚めて終わる。それは、以降の短編たちが、夢の世界ではなく現のできごとであるというアナウンスのように思える。

だから、「僕を愛しいと思うだろうか、不気味だと思うだろうか」という問いは、普段から家や学校や会社や駅のホームという現で繰り返されているそれと同じである。つまり、家族や同級生や上司や見知らぬ人を別であると感じ、また彼らの見ている世界を別であると感じ、ときにそれを愛しいと思い、ときにそれを不気味だと思い、あるいは自身や自身の世界がどう思われているだろうかと考えたりすることと同じである。

「我々は違う世界、違う世代から来た。
 でも一緒に踊れると思うよ。
 そのことが何よりも意味がある」
(映画『バンドワゴン』より)

深刻なことばかりの世の中ですが、チャンスを見つけて歌い、
踊っていきましょう!

(西村ツチカ『かわいそうな真弓さん』「あとがき」より)

違う世界とは、なにも遠くの銀河系という話ではないし、違う世代とは、なにも縄文時代という話ではない。同級生も、会社の上司も、電車でたまたま隣に座った人も、アパートの隣人も、生涯を共に生きると決めた伴侶でさえも、ココとは違う、それぞれのソコという世界で暮らす別の人たちだ。

僕にとってソコは「見たことのない構図」で組み立てられ、僕はソコに住む人たちを「歪んだデッサンと過剰なデフォルメ」を通して見る。ココも彼らにとって「見たことのない構図」で組み立てられ、僕も「歪んだデッサンと過剰なデフォルメ」を通して見られる。だからそこには、常に不安がつきまとう。

けれど、この作品に登場するキャラクターたちの機微にふれ、不安でありながらもそれを愛しいと思ったりしたように、そしてそうすることを「一緒に踊る」と表現するならば、現の別の人たち同士でも、きっと一緒に踊ることができる。

そんなふうに思える、とても愛しい作品集だ。


ということで、もし僕と一緒に踊ってくださるという現のかたがおられるならば、あつかましくもひとつだけお願いです。セックスと同様に、人のダンスも笑ってはいけません。