ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。

『ぼくらのよあけ』で語られる強くしなやかな生きかたとは

この作品は、沢渡悠真をはじめとする子供たちが、自分の星へ戻ることができなくなってしまった探査船「二月の黎明」号を宇宙へ帰そうと奮闘するなかで成長していくという物語だ。



地球の子供たちと、探査船(地球外知的生命体)は、対として描かれている。

探査船「二月の黎明」号の故郷である惑星に生まれた知的生命体の、”外の世界はどうなっているのだろう?”というたったひとつの命令から、「知りたい」「繋がりたい」という欲求に従い広大な宇宙という「外」へ向かった探査船。一方、SNSを介したコミュニティで発せられる言葉を「本音」と定義し、共通敵を設定することで機能する仲間意識で「内」へと向かう地球の子供たち。

この強烈なコントラストは、読者を動揺させる。率直に言えば、この作品を読んでいるとまず苛立ちを感じてしまう。それは、「ヤダよ!」「だって!」「関係ないじゃん!」とまわりを否定し拒絶し続ける子供たちに、時には子供時代の自分自身を重ねていたたまれなくなるからだ。

この作品の大半が、そういう意地っ張りな子供たちの描写に割かれているのはどうしてだろう。物語のラスト近くで、「二月の黎明」号がこの作品のテーマと共に、その理由を教えてくれる。

私たちが宇宙の中で強くしなやかに生き続けるためには何が必要だろうか?
おそらくその答えのひとつが”変化できること”だ
未知なるものと出会うこと 外の世界を知ること
そうして出会ったみずからとは隔絶した他者を―
どれだけ自分の中に受け入れることができるかということ
つまり……わかりやすく言えばこうだ
私はきみたちと友達になるために来たんだよ

(今井哲也『ぼくらのよあけ』2巻 P240-241)

この「二月の黎明」号のセリフに説得力を持たせるために、子供たちは意地っ張りとして描かれ続けた。そういう子供たちがいたからこそ、彼らに苛立ち身悶え焦燥した僕の腑に、このセリフが真に迫ったものとして転がり落ちる。

物語上では、「未知なるもの」は地球人以外の知的生命体として、「外の世界」は宇宙として描かれている。けれど、僕たちがそれぞれの日常で出会うすべての人やモノが「未知なるもの」だし、僕たちの目に映るすべてのものが「外の世界」だ。「みずからとは隔絶した他者」とは自分以外のすべてであり、つまり、みずからと隔絶していない他者などいない。



「ぼくら」は、すでに色々なものを手に入れた状態で生まれてくる。有り体に言えば、恵まれている。だから外の存在を無視して、自分とは違うものを拒絶し、内へ篭ることができる。けれど、それは新しくなにかを手に入れることを放棄しているとも言える。なにもかをも持っているから、なにも手にすることができない。

隔絶した他者を知り、受け入れることが「友達になる」ことであり、そうやって変化していくことがきっと、強くしなやかな生き方なのだ。