ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。

『羣青』という漫画について

なにがしかの物語が綴られている作品と対峙したとき、そこで描かれる世界に対し、僕はどう関わっているんだろうかと、映画や小説や漫画といった媒体の違いによって、関わり方も変わってくるんだろうかと、いつも考えます。



映画の多くは映像と音で表現されています。そこに映し出されるものを見て、発せられる音や声を聞いて、その世界を「認識」します。それに失敗しても、あるいは間に合わなくても、映画は僕を待たずに進みます。僕は、そこで描かれる世界を、たとえば通り過ぎていく電車を眺めるように、映画を観ます。

小説の多くは文字だけで表現されています。その文字列を読み、自分の頭のなかでその世界を「構築」します。それができるまで、小説は僕を待ちます。僕は、そこで描かれる世界の住人となって、登場人物の誰かとして生きるように、小説を読みます。

漫画の多くは絵と文字で表現されています。そこに描かれる絵を見て、文字列を読みます。その世界の半分は映画のように認識するものですが、もう半分を小説のように自分の頭のなかで構築します。それができるまで、漫画は僕を待ちます。僕は、そこで描かれる世界で、登場人物の傍らを歩くように、漫画を読みます。



もしも『羣青』が映画だったら、そのひとつひとつを噛みしめずにはいられない鋭い言葉で感情をぶつけ合うキャラクターたちの台詞を噛みしめるのが(演出や脚本がどうということではなく単に僕の頭の回転速度を鑑みると)間に合わず、物語に置いていかれていたかもしれません。

もしも『羣青』が小説だったら、ときにメガネさんとして、ときにレズさんとして、ときに元彼女さんとして、ときにレズさんの兄ちゃんとして、ときに元彼女さんの母親として、ときにレズさんの兄嫁さんとして、そうやってこの物語の誰かとして生きることを、その誰かと僕自身との同一性や非同一性に振りまわされて押しつぶされて、途中で放棄していたかもしれません。

けれど折よく、『羣青』は漫画です。圧倒的な質量と密度を持った台詞を噛みしめながら、少しずつ少しずつ読み進め、登場人物の顔や髪の毛や手や服を見て、僕はそのうちの誰でもないことを確認しながら、しかし彼女たちと同じ場所に立ち同じものを見て同じ言葉を受けとめ、その傍らを歩き続けることができました。

そうして辿り着いた、下巻P532‐533の見開きで、ああ、この漫画はこのページのためにあったんだと、この作品の生も死も幸も不幸も理解も無理解も、途方もない量の引かれた線も削られたトーンも塗り潰されたベタも、すべては彼女にこれを言わせるためにあったんだと、そう思ったらもう涙がとまらなくて、ここまでの道のりを、千数百ページを思い返して、しばらくの間その見開きを眺め続けて、そうやってなかなか次のページに進めない僕が涙を拭うまで、『羣青』はそこで待っていてくれて、だから。

『羣青』という漫画について。

最後まで読み終えた今、ただただこのタイトルでなにかを言えるということに対する感謝の念が、涙と鼻水ともに溢れてとまりません。この物語に初めて関わる手段が漫画という媒体で、本当によかった。



ということで、この作品は今後メディアミックスされていくんだろうなと勝手に予想しているわけですが、この物語に対する初体験のお相手はぜひとも漫画でと、それが言いたかったのです。

念のためつけ加えておくと、メディアミックスに対して否定的というニュアンスは一切ありません。たとえば映画になったとしたら、よろこんで観に行きます。

というかですね、映画化するんであれば、上巻でメガネさんに股間を踏まれるあの警官の役は僕にやらせなさいよと、ほんとうは、それが言いたかったのです。