ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。主に漫画の感想です。

『少年ノート』に学ぶ合唱のおもしろさとは

少年ノート(3) (モーニング KC)

少年ノート(3) (モーニング KC)

鎌谷悠希先生の『少年ノート』、単行本は現時点で3巻まで発売されており、物語は主人公の蒼井由多香が、ウラジーミル・ポポフの言うところの歌手としてのアイデンティティをどう獲得するのか、あるいはどう獲得しないのかというような状況で、期待が膨らむばかりです。

が、僕は昔から合唱という表現形態に関してわからない部分があって、それがこの『少年ノート』を心から楽しむことを妨げているように感じていました。けれど3巻まで読んでみたところ、そのわからない部分が解けた気がするのです。

ということで、ちょっと由多香のことは置いておいて、『少年ノート』における合唱の扱いかたを復習したいと、そう思った次第です。


まず、合唱というものに関しては、ソプラノやアルトやテナーやバスといったパートがあって、それは順々に担当する音が低くなっていって、複数の人間がそれぞれの担当する音を持ち寄ってひとつの楽曲を表現する……程度の捉え方なのですが、この「複数の人間の声でひとつの楽曲を表現する」というところがどうしても引っかかってしまうのですね。

合唱で表現するのは歌ですから、そこには詩が、言葉があります。そして、その発声の仕方が直接表現として機能するので、もちろん技術的な部分もあるのでしょうが、自ずと「詩の意味を理解して歌う」というような話になってきます。『少年ノート』の中でも、合唱部の練習中、部長の別役秋年が部員たちに対して「切ない感じなんだよそこは」などと指導する場面が見られます。

しかしですね、合唱は複数の人間によって歌われますから、切ない言葉を歌う日にどうしても切ない気分になれない人もいるでしょうし、逆に楽しい言葉を歌う日にどうしてもウキウキできない人もいるでしょう。

そもそも「切ない感じ」と聞いて、たとえば歌詞の持つ意味をそのまま想像する人もいるでしょうし、飼っていた犬が亡くなった日を思い浮かべる人もいるでしょうし、小学校の頃に好きだった女子に宛てたラブレターを友達に晒された日のことや中学校の頃に好きだった女子がフォークダンスのとき手を握らずにつまんできた日のことや高校の頃に好きだった女子が自分の友達と付き合い始めたので手をつないでいるのを見守りながら毎日3人で下校していた日々のことを思い返す人もいるでしょうし、要するに「切ない」の捉え方は千差万別だと思うのです。

それでも複数の人間が同時に同一の言葉を発声する、という表現方法に、言ってみれば気味の悪さに似た違和感があって、それが合唱に対するわからない部分だったのです。


さて、自分のイメージする「切ない感じ」を部員たちに理解してもらおうと奮闘する合唱部部長の別役くんですが、その練習方法に対して顧問の太田先生は「歌詞に気をとられすぎ 歌が歌じゃなくなんだろ」「詩の意味なんてのは書いた本人にしかわからんものだし 合唱の肝になるもんでもなし」と意見します。詩の意味は「合唱の肝になるもん」ではないと。

しかし、別役くんが参加した合唱指導者向けのセミナーで、他校の教師は「『詩の本質』を理解してからの生徒の表現力には目をみはりますよね」と言っています。やはり「詩の本質」を理解するのが重要だと。

「合唱の肝は詩ではない」とする太田先生と、「詩の本質の理解」を重要視する他校の教師の論は、対立しているのでしょうか。「合唱の肝」や「詩の本質」ってなんなのでしょうか。


地区コンクールへの出場を目前に控えた合唱部に、太田先生はこう語りかけます。

どうしたいんだ? この「部」を
合唱をどう想うか どう楽しむか
それは個々それぞれが自由でいて構わない
だが「部」の向かってくところは
ハッキリひとつにさせとこうや
河海東中合唱部の”着地点”はどこにある?

(鎌谷悠希『少年ノート』3巻 P90-91)

その地区コンクールへ、主人公の由多香はある事情で合唱部として出場することはできませんでした。しかし部員たちは、地区コンクールを勝ち抜けば由多香に次の機会を用意することができるという点で団結します。別役くんは部員たちを鼓舞します。

そうだ 僕らの声を届ければいい
聴く人ひとりひとりに 蒼井にも
次に繋がるように とおくのとおくまで
それがいまぼくに 僕ら河海東中にできることなんだ

(同3巻 P196-197)

複数の人間で歌う上での要は、その歌に関する解釈や気分の共有ではなく、合唱をどう想っていてもどう楽しんでもいいから、同じ方向を見ること。つまり「着地点」を共有すること。それが「合唱の肝」じゃないでしょうか。

また、合唱というのは歌ですから、そこには詩が、言葉があります。言葉があるということは、それを届けたい誰かがいるはずです。歌を自分の中に留めずに、それを届ける誰かを想像すること。それが「詩の本質」じゃないでしょうか。

このときの河海東中合唱部に関して言えば、由多香を介して部員たちの中に共有された「詩の本質」が、同時に「次を目指す」という合唱部としての着地点、つまり「合唱の肝」となっています。それらは、複数の人間で歌う合唱だからこそ、歌詞の持つ意味や気分に左右されないものなのでしょう。そして、そういった強い肝や本質を獲得した合唱が、面白い合唱、良い合唱なのではないでしょうか。


1巻のラストに、合唱についての印象的なモノローグがあり、最初に読んだときはいまいち意味がわからなかったのですが、今ではスッと腑に落ちてきます。

歌う理由は 人の数だけ 音の数だけ
大きな 小さな 無意識の 意識した
バラバラの心が ひとつの歌をつくる
だからきっと 合唱は面白い

(同1巻 P213-215)

ということで、『少年ノート』のおかげで僕の合唱に対するわからない部分は解けました。ああ、すっきりした。


そういえば、『少年ノート』3巻の帯にある推薦文は中田永一先生によるものでしたが、中田先生の『くちびるに歌を』という小説も合唱を扱った作品で、同様に「この人に届けたい」という想いで素敵な歌声が響くというお話でした。こちらも合わせてオススメです。

くちびるに歌を

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