ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。

『空が灰色だから』という白でも黒でもない話

白黒つけるという言葉があるけれど、その是非を明確に判断できる事柄なんて世のなかにはそうそうない。朝食はパンにしようかお米にしようか、右に行こうか左に行こうか、進学しようか就職しようか、結婚しようかひとりでいようか、それはよいことか悪いことか、それは嬉しいことか腹の立つことか、それは悲しいことか楽しいことか……。

万人に通ずる解答などない、白でもなく黒でもなくグレーでしかないあれこれを、それぞれの状況やら考えやらと擦りあわせ、無理やり白だ黒だと決めつけて、僕たちは選び生活していく。なぜか。グレーのままでは不安だからだ。



さて、”心がざわつく”短篇集『空が灰色だから』。良質な短篇の多くがそうであるように、この作品も各話の最終ページ・最終コマがすばらしいが、心がざわつく理由のひとつに、その使い方があるように思う。

僕がとくにざわつく話といえば、第9話「夏がはじまる」、第16話「金魚」、第27話「4年2組 熱血きらら先生」あたりだが、これらの最終コマは、テキストなし且つ表情の見えない人物の描写で閉じる、というやり方で共通している。

それまでの話の流れや直前のコマに頼って彼らの表情を予想することはできるが、読み取ることはできない。だから、この話が笑える話なのか腹の立つ話なのか悲しい話なのか楽しい話なのか判断に迷う。すぐに白黒つけることができない。

物語の多くは、人々が世界に対して漠然と持つ期待や不安を代弁し、そこに白黒つけるという役割を担う。でも、『空が灰色だから』はグレーのものをグレーのままで読者に投げつける。白でもなく黒でもない灰色の塊を受けとめた心は、どうにかそこに白黒つけようとざわついてしまうのだ。



あなたは物ごとに白黒をつけたがるけれど、それこそよし悪しじゃないだろうか。あなたが白だと言うそれは、誰かにとっては黒いのだし、あなたが黒いと言うそれは、誰かにとっては白いのだ。グレーのものはグレーのままでもいいだろう? 不安かもしれないけれど、大丈夫、彼らも不安だ。だって、世界が灰色だから。だって、空が灰色だから。

凝り固まった頭に、そんなふうに疑問符を投げつけてくる、怪作であり快作。