ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。主に漫画の感想です。

『宇宙兄弟』で交わされた約束の価値

宇宙兄弟(9) (モーニングKC)

宇宙兄弟(9) (モーニングKC)

さきごろ発売された第9巻で、月面クレーターからの日々人の生還を経て、『宇宙兄弟』という作品の芯が慥かに定まった感がある。「約束」をキーワードに振り返ってみたい。

六太と日々人

俺は祈らねえぞ日々人
祈らねえ
祈らねえ
(中略)
俺は心配してねえから祈らねえ


(小山宙哉『宇宙兄弟』9巻 P53-54)

日々人たちが絶体絶命の危機に陥っているさなか、「2人の無事を祈ろう」と促された六太のモノローグ。六太は、なぜ「祈らねえ」のか。

ここでいう祈りの内容はふたりの無事、日々人とダミアンの生還だ。六太以外の人にとっては、それを祈ることに迷いはない。しかしこの兄弟は、1巻の#1で(作中の時間で言うと約20年前に)「2人で宇宙飛行士になる」という約束を交わしている。それをいまだに果たしていない六太は、「日々人が無事ならそれでいい」と思うことはできない。日々人の生還という祈りの先に、どうしてもしなければならないことがあるからだ。

約束を交わすというのは、こうなって欲しいという願いではなく、こうありたいという決意だ。当事者は、その成就を祈ってはならない。だから、兄は祈らない。

といって、兄は弟の安否を気遣っていないわけではない。

日々人……お前は
また……なーんもなかったみたいに戻って来いよ


(同9巻 P121-122)

「昔から家族にさんざん心配かけといて何もなかったかのように普通~~~に帰ってきやがる」日々人は、「どうせ今回もそう」だと思っている六太。そういう彼の、このモノローグに続く言葉はきっと、「俺が待っててやるから」だ。弟には「いつも、そこに兄がいる」という大前提があり、それは同時に、兄とっては「ただ待つ」ことができる理由なのだと思う。

そして、日々人の生還後に、兄弟は「俺らは生きて、一緒に月面に立とうぜ」「バカヤロウ……当たり前だ」という会話を交わす。新たな約束が、20年前に比べてより率直に、より素直に交わされた。それは、「2人で月面に立てたらいいね」という願望ではない。「2人で月面に立てることを願おう」という祈りでもない。兄弟が、20年掛けて確認した、お互いの決意だ。

六太とシャロン

さて、六太は子供のころ(1巻#2)に、「俺が月面に望遠鏡を建てる」という約束を、シャロンと交わしている。9巻#87で、シャロンは彼を自宅に呼んで、彼女の天文チームによる「月面望遠鏡」の計画が動き出すことを彼に伝える。その時のふたりの会話。

「何か思い出した?」
「ん……ああ。その約束は………ちゃんと覚えてるよ」
「うれしいわ」


(同9巻 P94)

宇宙飛行士候補生になったばかりの六太には、まだその約束を果たすことはできない。しかし、それを六太が覚えていることにシャロンは喜ぶ。シャロンは、なぜ「うれしい」のか。

約束を交わすという関係性は、人と人とのコミュニケーションにおいて、本来それほど簡単なことではない。極端に言えば、当事者同士で各々のアイデンティティーを委ね合うことになるからだ。そういった関係性が成立するというのは、その時点で、約束が果たされるのを待たずに、素晴らしいことだ。だからシャロンは、六太と「約束を交わす」という関係性が成立し、「覚えている」ことで、それが継続しているということが「うれしい」のだ。

宇宙兄弟の約束

1巻の#1で交わした六太と日々人の約束が、9巻の#86で新たな決意となった。
1巻の#2で交わした六太とシャロンの約束が、9巻の#87で新たに確認された。

9巻、#88での六太のモノローグ。

シャロンとの約束――
日々人との約束―――
なんだ……俺には――
やるべきことがちゃんとあるな


(同9巻 P205-206)

六太には、「すべきこと」がある。ここに『宇宙兄弟』の約束の価値が集約されている。「約束」とは、それが果たされたときにだけ価値があるものではなく、交わされたときにも一旦昇華するものである。#1から#88をまたいだ、そういう約束の価値の扱い方に、とても胸を打たれるのだ。

おまけ:せりかとお父さん

子供のころに、せりかは病床に臥す父親に対し、「私がお父さんの病気治す」という約束を交わしている。その時に、こんなことを言っていた。

重力がなければきれいなタンパク質が作れるから
脳の病気の原因も地上よりちゃんと研究できるんだよ


(同9巻 P16)

「重力がなければきれいなタンパク質が作れる」ように、何もない宇宙で生きようとしたとき、本当に必要なものだけが抽出される。それは酸素や水や温度のことだが、『宇宙兄弟』では、人と人との関わりがそれらと並列に描かれている。だからこの作品は、真に感動的なのだ。

混じりけのない人々の関係性を描くために、作者は宇宙という舞台を選んだのではないかと、勝手に想像している。