ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。

『箱庭ヘブン』のやさしい無頓着

浅利さんのお屋敷には、様々な人が暮らしている。

自分のことを「あたし」と呼び、「~だわ、~なのよ」といった語尾で話す男性、ローズ。浅利の知人の娘、憩。わけあってお屋敷で暮らす典(5歳)と妹の万瑠(4歳)。飲み屋で泥酔していたところを浅利に拾われてきたが、ある日500万を浅利の部屋から持ち出したまま行方不明中の猿橋。元々はチロと呼ばれていたらしい犬の丘太郎。

彼らは、家族ではない。また、彼らがなぜ浅利さんのお屋敷、通称浅利邸で暮らすようになったのかもほとんど語られない。

屋敷の主人である浅利という人物についても、大きな屋敷を維持しながら部屋に500万円をポンとおいて置けるような経済力を持つ、着物が普段着の男性、ということ以外はわからない。

そうして彼らの出自は不明のまま、たとえば浅利邸の造園を受け持つ庭師の熊野に対する憩の恋が描かれていたりして、彼らは何者だろうと思いつつ、しかしそのエピソードを読んだ僕は涙腺が緩むなどしてしまい、この心地のよさは一体なんだろうと不思議に感じたのだ。



作中において、『でんでんむしのかなしみ』という童話についての言及がある。

でんでんむしは、自分の背負う殻の中に悲しみが詰まっていることに気がついて、それを友達に告げたところ、皆一様に自分の殻も悲しみでいっぱいだと告げられる。

それで、でんでんむしはまた気がつく。悲しみはわたしばかりではなく、誰もが持っているのだ、わたしは、わたしの悲しみを堪えていかなければならないのだと。

また、猿橋と典によるこんな会話も描かれる。

「カタツムリのカラをとると
 カタツムリはナメクジになるの?」
「あはは ちがうよ カタツムリの殻は 体の一部だから
 取ってしまったら カタツムリは 死んじゃうよ」

(羽柴麻央『箱庭へブン』1巻 P33)

浅利邸に暮らす人々はみな、それぞれの事情や悲しみを抱えている。しかし、一緒に生活しながらも、お互いにそれを詳しく知らない。それは「あなたの悲しみはあなたのもの」という無頓着であり、同時に「わたしの悲しみはわたしが背負う」という覚悟なのだろう。

こういった無頓着さや覚悟は、本当の家族間では持ちがたいものかもしれない。持ちがたいタイプの家族もいるといったほうがよいだろうか。

いずれにしろ、殻を取ったカタツムリが死んでしまうように、「わたしの悲しみ」は自分が背負わなければわたしがわたしでなくなってしまうと、彼らはそう思って浅利邸で暮らしている。だからお互いの過去について無頓着で、それでも誰かの新しく始まりそうな恋を応援したりして。

僕にとって、そのあたりがとても優しくてヘブンリィで、読んでいて心地よい理由だったのかもしれない。