ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。

『人魚のうたがきこえる』と僕の間に残されたもの

まわりをサンゴに守られたラグーンのなかで暮らす人魚たち。その上半身は人間のようで、下半身はマンタのようだ。泳ぐウミガメの背につかまって遊び、鋭く伸びた爪で獲物を狩り、尖った歯でそれを貪り、真っ暗な海のなかで眠る。人魚と、海の生き物たちのありのままの営みが、水中に差し込む光を駆使して描かれている。



ページをめくりながら、人魚たちを美しいと思い、恐ろしいと思い、可愛いと思う。人魚たちとなんらかの、人と人、あるいは人とある種の哺乳類とのそれに似た関係性を築けたらと思う。

一度だけ、視線をこちらに向けた人魚がクローズアップで描かれる。その人魚の目を見て、「あ、これは無理だ」と思う。人魚たちと、僕の主観は相容れない。人魚たちには人魚たちの営みがあって、僕のそれとは相容れない。

「生きものの本質を捉えて描かれた」と紹介されているこの作品、飾り気のない海の生きものとして描かれた人魚たちが、そう言わしめているのだろう。同時に、僕にとっては人魚たちに感じた相容れなさが、とても本質的だった。それは、別に海に潜らなくとも、普段から出会う「生きもの」たちに毎日感じているものだったから。



人魚たちと僕の間に残されたのは、声だ。

きゃー ろろろろろろ
くるる くるる かっかっかっ

五十嵐大介『人魚のうたがきこえる』より

海中に響くその声を、僕は歌として聞く。それだけが、人魚たちとの間に受容され得る関係性なのだ。