ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。

『私という猫 ~呼び声~』と私について

知らなかっただろ どんなやつらが どんな場所で
どんなふうに生きているか
自分がどんな世界にいるのか知りもしないで
どうやってひとりで生きていくんだよ
ひとりでも生きていけるように みんな関わりあうんだ

(イシデ電『私という猫』より)

これは、前作『私という猫』で、「猫はひとりで生きるものであり孤高こそ理想」だと思う「私」という猫に対し、野良猫たちの集会という新しい世界を見せながら、「美しっぽ」という猫がかけた言葉です。

私は『私という猫』という漫画を読んでから、ほとんど片時も、この美しっぽの言葉を忘れたことがありませんでした。誰かと関わるということがあまり得意ではない私は、それでも関わりたいと思ったり、関わらなければならなかったりする日々のなかで、ほとんど片時も、この美しっぽの言葉を忘れたことがありませんでした。



その『私という猫』の第二部として、『私という猫 ~呼び声~』が発売されました。前作では野良猫たちの生き死にを通し、野良猫社会ともいうべきものが描かれていましたが、今作ではヒトとの関わりも交えながら、野良猫たちの生き死にそれ自体が描かれています。

物語序盤、ヒトの関わったある事件をきっかけに、「ひどいめにあってもヒトとなかよくするのをやめない」という「ミーさん」や、「そのせいで飢え死にしたとしてもヒトと離れて生きていく」という美しっぽのヒトに対する態度が綴られます。

一方、「ヒトが大好き」というミーさんを「気色悪い」と毒突くばかりの無防備な「私」は、美しっぽに「で? 考えてんの? おまえは」と諭されます。

ミーさんや美しっぽは、それぞれに考え、それぞれに結論を出し、生き方を決めています。どちらが正しいということではなく、とにかく自分で考えて自分で決めています。そうして決めた生き方で、ひとりで生きて、ひとりで死んでいくのです。

無防備ゆえに、その後ある境遇に陥った「私」は、彼女たちの生き死に、つまり足跡を見て自分の生き方を決め、それを貫きました。その「私」の足跡が、今度は別の猫に生き方を示します。



私たちも、ひとりで生きて、ひとりで死んでいきます。その足跡を眺めることしかできません。しかし、それを見て考えることはできます。誰かの足跡を見て、私は自分の足跡のつけ方を考えます。その行為は、美しっぽが前作で言った「関わりあい」であり、私というヒトの足跡とはつまり、「私」という猫のそれと同じように、今作で言う「生き方」そのものだと思うのです。

前作で示された「関わりあうこと」、今作で示された「生きること」。このシリーズに限らずイシデ電さんの作品から、私はいつもそういったテーマを受け取ります。だから、イシデさんの作品について何か話すとき、私は必ずこう言います。

イシデ電さんの描く太い線は、イシデさんと私、イシデさんとあなた、そしてあなたと私を繋ぐ架け橋なのです。