ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。

『ひばりの朝』を迎えて

すぐに忘れてしまうのです。この作品のタイトルが、『ひばりの朝』だということを。すぐに見失ってしまうのです。この作品は、朝を待つひばりの話だということを。


粘り気をおびた視線や態度を突きつけてくる父親と、14歳の彼女を「オンナ」として扱う母親のいる家で、ひばりは居場所を失います。世間の男性から父親と同質の視線を向けられるのも、世間の女性から母親と同質の扱いを受けるのも、「あたしがそうゆう子だから」と見なすひばりは、「あたしがわるい あたしがわるい あたしがわるい」と繰り返すことで息をしています。

まわりの大人たちは、ひばりと同じ年のころに、同じ種類の息苦しさに襲われたことがあるはずで、たとえば完が「たいせつなもの」から目を背け続けているように、たとえば憲人が心の内で「全員死ね」と唱え続けているように、たとえば富子が「初めて女の値段をつけてくれた男」に執着し続けているように、それぞれの息の仕方を身につけて生きてきました。

僕にだって、誰にも言えない僕だけの息の仕方があるのです。そうやって、「自分がかつて子供であったことを忘れないと生きてゆけないのです」。

ほら、こうやって、すぐに大人たちの話になってしまいます。自分の話になってしまいます。今しているのは、ひばりの話。


父親から「セーテキギャクタイ」を受けているという噂が広まり、ひばりは学校の中でも、居場所を失います。さらに、放課後の避難所だった完のアパートに現れた富子による、「電車でね 女のコたちが お父さんの話をしてた……」という不意打ちに、そして完による独断的で断定的で厚意的で良心的な「謝っちゃえって」という善導に、ひばりはもうどこにも行けなくなってしまいます。

「あたしがわるいんじゃない」と抵抗するひばりはしかし、自分が助かっているというヴィジョンを持てず、ある決心とともに父親のもとへ戻ります。決心とは、息を止めること。正確に言えば、「息をとめているから平気」だと自分に言い聞かせ続けるという息の仕方。



息の仕方といえば、美知花も途中でそれを変えています。母親を真似て上辺を繕いながら、内面で他人を値踏みすることで生を得ていた美知花は、逆に他人からそうされることで、その生に疑問を感じ、だから母親に「…子育て失敗 ……残念でした」という言葉を投げつけてみたところ、なにごともなかったように教師と挨拶をする母親、という決定的なシーンに直面し、その後「生きていたくない 寝てる間に死んでいたい」と、言わばリセットボタンに焦がれた「死」を積極的に口にすることで息をし始めました。息を止めることを選んだひばりと対照的です。

美知花が世の中に対して行う極端な線引き、「敵と味方以外にも人間はいること きれいときたない以外のものごともあること 生と死以外の選択肢もあること 大人と子供以外の人間もいること」を知らない彼女の線引きは、互いに中庸を担保した大人たちのそれとは違います。大人の線引きに慣れた僕は、美知花のような幼い分別を目にするたびに、そこに自責の念と諦めを感じながら、彼女たちが「世界にどれほど美しく強堅で信ずるべき善いものを求めているか いつも思い知らされるようです」。

ほら、また、こうやってすぐに大人の話になってしまいます。自分の話になってしまいます。今しているのは、ひばりの話。



できることとできないことを測り、自分が助かっているヴィジョンを持てたのが、高校卒業後だったのでしょう。ひばりは「おおよそ のこり千五百回の夜を」、つまり中学2年の途中から高校3年が終わるまでの夜を、「息を止めたまま眠る」と決めました。「息をとめているから平気だ」と自分に言い聞かせながら静かに暮らし、ついにその朝を迎えたひばりは、卒業式にも顔を出さずに、いってしまうのです。「いかなければ さもなくば しんでしまう」から。

これが、”talk.13”までのひばりの話。すでに朝を迎えています。では、最終話”final talk”で描かれているのはなんなのでしょう。息を止めて眠るひばりに手を伸ばす父親、聞かれてもいない自分の近況を嬉々としてひばりに伝える富子、自分のところに帰ってくると微塵も疑わずにおすしをとってひばりを待つ母親と完。これは、誰のことだと思いますか? 僕は、僕のことだと思います。

作中の大人たちが、ひばりと対峙した時に彼女自身を見ていないように、自分の見たいように見てしまうように、なにかと対峙した僕も、自分しか見ていないのでしょう。自分の見たいように見てしまうのでしょう。

そうやって放つ言葉や態度が、気づかないうちに誰かの息を止めているのだと思います。あとから気づくこともありますが、零れてしまったコーヒーのようにそれは広がり、なかったことには絶対にできません。せめて、僕の零したコーヒーで誰かが溺れてしまわないように、大人たちの零したコーヒーで子供たちが溺れてしまわないように、きっとまた零してしまうけれど、きっと誰かが零すのを見ることもあるだろうけれど、それを見て見ぬふりはしたくないなあと、『ひばりの朝』を迎えて、そう感じたのです。



ということで、読んだ人の多くが、その中でもおそらくは大人たちの多くが、ひばりを忘れてまわりの大人たちの話に終始するよう描かれているのが、この作品の凄まじいところだなと。

ほら、また、こうやってすぐに大人の話。自分の話。