ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。主に漫画の感想です。

『ヒメアノ~ル』とは誰の物語だったのか

ヒメアノ~ル(6)<完> (ヤンマガKCスペシャル)

ヒメアノ~ル(6)<完> (ヤンマガKCスペシャル)

古谷実の7作目にあたる、『ヒメアノ~ル』が完結した。この作品を、5作目『シガテラ』、6作目『わにとかげぎす』に見られる「ごく一般的な小市民である主人公の、タナボタ的な恋愛を含む日常と、そこにまぎれ込む非日常としての悪意」という設定の延長上にある作品として捉えることも可能で、実際に僕が見聞きした範囲では、そういった感想が多いように思う。

とするならば、『ヒメアノ~ル』の主人公は岡田君ということになる。しかし、最終巻を読み終えてみると、主人公は森田ではないかと思えてくる。物語をドライヴするだけではなく、物語の趣旨を体現するという意味での主人公。


まず、『ヒメアノ~ル』における物語の趣旨とは、「マイノリティの社会的な悲劇」だ。

森田は、人の首を絞めると性的快感を得るという嗜好の持ち主であるが、その嗜好自体は(森田自身の言うように)病気ではない。しかし、そこに性的快感が伴ったこと、一般的に理解されがたい嗜好であること、そしてその欲求を満たすには、反社会的行為が前提になってしまうことが悲劇であり、だから「マイノリティの社会的な悲劇」なのだ。

6巻第58話。富田の「お前は病気だ」という発言に対する森田の反論は、「たまたまオレの普通がみんなと違ってただけだから、病気という言葉で括ることに意味なんてない」というものだった。

富田の発言は、「人の首を絞めると最高に気持ちいい」のは「病気だ」ではなく、「人を殺す理由が、人の首を絞めると最高に気持ちがいいから」なのは「病気だ」という意味にも読むことができ、あるいは森田に歩み寄っているようにも思えるが、彼にとってはどちらも同じことなのだ。

森田は中学生のころ、「オレは完全に”フツーじゃない”」と自覚し、悔しくて、死にたくなり、涙を流している。「フツーじゃない」ことを自覚して死にたくなるということは、生きていくためには「フツーじゃない」ことをするしかないということだ。彼にとっての世界は、以前から悲劇でしかなかったのである。

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(古谷実『ヒメアノ~ル』6巻 P180-181)


5作目以降の古谷作品には、群像劇的な面が見られる。読む人によって感情移入の対象が異なるということで、それは作中のできごとの持つ意味も、読む人によって異なるということだ。

『ヒメアノ~ル』は、劇の中心をなす「事件」は常に「森田」であり、それを取り巻く群像に感情移入する読者が、「事件」つまり森田のような社会的マイノリティのことをどう捉えて読んできたか、さらには最終巻最終ページの彼の涙どう捉えるかを問いかける仕掛けになっている。『ヒメアノ~ル』は、森田の物語なのだ。


ところで5巻の中で、漫画家(?)の高橋とその編集者らしき人物が、高橋のマンガについて、こんな会話を交わしている。

「この1ページ丸々使っちゃってる田んぼの風景は何?
 遠くに立ってるのは主人公の男の子だよね?」
「はい…だからそれはその子がみんなの中で……
 一番醜い人間は自分なんじゃないかと悩んでいる所です」


(古谷実『ヒメアノ~ル』5巻 P81)

「1ページ丸々使っちゃってる田んぼの風景」と上記の画像は、同じような構図の、同じような効果を狙った描写にしか思えない。ここにも、編集者というマジョリティによって、高橋というマイノリティが顕われた。