ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。

『モテキ』に移ろう、君の中の俺

自分のことや誰かのことを想うというのは、たとえば空に浮かぶ雲を見て、「何の形に見える?」と問いかけるのと同じだ。

小宮山夏樹の言葉。

”本当の私”を理解したなんて思い込みだか思い上がりが嫌なの
そもそも知ってもらいたい”本当の私”なんて無いし
100人いたら100人の頭の中で見える私って全部違うのよ
そんなの全部責任持てないわ。もう、どうでもいい

(久保ミツロウ『モテキ』4巻 P169-170)

自分や他人というのは、その関わりの中にしかない。明確な自分というものがいるわけではなくて、映し鏡のように、誰かの中に映る自分を、自分であると認識している。同様に、明確な誰かというものがいるわけではなくて、映し鏡のように、たとえば僕の中に映る誰かを、その誰かは認識している。

つまり、自分とか誰かというのはそれぞれの関係性のことで、実際にそういうものがあるわけではない。本当の自分や誰かのことなんて誰にもわからないから、「もう、どうでもいい」のだ。

”本当の私”なんてないからこそ、「どういう形だったら良いと思う?」と、誰かに問いかけることができるとも言える。けれど、そういう誰かとの関わりの中で問われる形、たとえば愛だとか憎しみだとか呼ばれるものの類もやはり関係性で、自分や誰かの中にあるわけではない。そうやって関係性を言葉にしてみることで、確かなものをたぐり寄せているような気になって、誰かのことを理解したなんて考えてしまうのは、小宮山夏樹の言うように思い込みや思い上がりでしかない。

だから、誰かと関わること、誰かとの関わりを言葉にしようとすることは、どちらにしても自己言及的な行為にしか成り得ない。けれど、自分で自分と関わるには、そうするしかないのだ。誰かと関わろうとしない人間、つまり自分と関わろうとしない人間は、時に誰かを、あるいは自分を傷つける。自分の中の自分しか見ようとしない藤本幸世と、誰かの中の自分を見ようとしない小宮山夏樹は、とても似ている。



さて、『モテキ』とはどんな形だったのだろう。人と人との関わりの答えは、どこにあるのだろう。

最終話での、藤本幸世のモノローグ。

本当の俺とは別に、皆の中にもそれぞれの俺がいるんだ
ずっと俺は、自分は好かれる資格がないんだと思ってたけど
俺の実態とは関係なく、誰かの心の中での姿は、良くも悪くも変わってく
俺になんでモテ期が来たのか分かんなかったけど
きっと皆の中で「俺」が勝手に動き回ってたんだろうな
全部伝わらなくてもいいから、伝えてみるよ

(同書 P200-201)

答えは、自分の中にも、誰かの中にもない。なぜなら、「答え」というのも関係性だからだ。誰かと関わることでしか、それを見つけることはできない。だから幸世は、「全部伝わらなくても」そうしたいと思ったのだ。そこに「答え」が見つかるかどうかは、また別の話。

ともあれ、これが僕の形だ。あなたの形は、どんなふうになっただろう。もちろんそれらは、時とともに変わっていく。空に浮かぶ雲みたいに。「君の中の俺」みたいに。