ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。

『林檎の木を植える』のは明日も今日であるように

なにかを変化させたことに対する賞賛の声は、しばしば耳にする。なにかを変えるというのは相当のエネルギーを必要とするから、当然ではあるだろう。一方で、なにかを変化させないということが軽視されがちな気もしている。維持していくことにだって、同じようにエネルギーを使っているはずなのに。

変わらないこと、変わっていくことにまつわるそういった僕の心もとなさを、『林檎の木を植える』という作品がすくい取ってくれた。

 

高校3年の夏休みに、幼馴染の真由果が死んだ。「皆に話したいことがあるんだ」と言い残し、ふだんは乗らないバスに乗り、事故にあって死んだ。彼女の幼馴染であるリカ、聖奈、みいの3人、そしてみいが借りたアパートの隣人である槙が中心となり、真由果を巡る真実が明かされていく。

謎を残して死んだ真由果だが、槙はなぜか彼女のことを知っているらしい。しかし幼馴染の3人は、仲がよかった一方で、それぞれが真由果に対する後ろめたさを持っていて、彼女の真実に迫ることに臆病になっていた。

全6話で構成されたこの作品は、彼女たちの真由果に対する後ろめたさのわけ、さらには槙と友人との確執を描くのに5話を要している。端的に言って重い。しかし、その重圧がバネになり、物語は最終話で見事な解放を迎える。

小学生から高校生という、変化し続けることを余儀なくされる時期を、幼馴染の4人と過ごした真由果が望んでいたのは、変わらないものだった。「皆に話したいこと」は、それが変わらないための、それを維持するためのエネルギーだったのだ。

 

学生時代、自らの意志とは無関係に変わっていく体、変わっていくこと求められる心を抱え、その変化に対しての評価がすなわち自分の評価のすべてだと思っていた。だから変化に対するエネルギーは惜しみなく注ぐ一方で、「恵まれていた現状」を維持するためのそれを惜しんだりしていた。

そういう当時の自分が感じた後ろめたさも重ねて、真由果の真実は僕の胸に響く。

 

ところで、この作品の各話のタイトルは「Joule1」から「Joule6」となっている。学生の時に習ったエネルギーの単位としてのジュールかなと思いながらネットで調べてみると、ウィキペディアに「1ジュールは、地球上でおよそ102グラム(小さなリンゴくらいの重さ)の物体を1メートル持ち上げる時の仕事に相当する」という記述があった。

このたとえが一般的なのかどうか、そしてこの記述が作品に関係があるのかどうかわからないけれど、思わぬところにタイトルへのつながりを見つけた。そう、僕にとっての『林檎の木を植える』という作品は、大切なものを維持していくエネルギーの話だ。

 

誰かとの関係性を、たとえば恋人と呼べるような関係性を形づくることは、とてもエネルギーが必要で、だからそれに成功すれば祝福される。一方で、長く続いた恋人たちを指して「マンネリだ」などと揶揄する声もある。いいじゃないか、マンネリ。マンネることのできる関係性も、それを維持しているという点で賞賛されるべきだ。

変わっていくことを求められる日々の中で、大切なものが変わらないことを望む。だから「たとえ明日世界が終わるとも、今日私は林檎の木を植える」のだ。たとえ明日世界が終わるとも、今日僕は握り慣れた恋人の手をまた握るのだ。