ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。

『夢から覚めたあの子とはきっと上手く喋れない』けれど

ある雨の日に、かわいい系のおじさんであるところの僕が、ダンボール箱に入れられて、道端に捨てられていたとしよう。通りかかったあなたは、僕をひと目見て拾いたいという衝動に駆られるが、おじさんを飼ってはいけないアパートに住んでいるので、近くのコンビニで急ぎ買った牛乳と、自分が差していた傘だけ置いて、そこを足早に立ち去るのだ。

僕はさみしさに包まれる。「置いて行かれた」というさみしさに。拾わないならほかになにもされたくないから、差された傘を打ち捨て、牛乳には手をつけない。そして翌日、また同じ道を通ったあなたも、打ち捨てられた傘と未開封の牛乳を見て、さみしさに包まれる。「私の愛が届いていない」というさみしさに。

 

『夢から覚めたあの子とはきっと上手く喋れない』には、愛の不足と余剰によるさみしさを抱えた人たちが描かれている。だからこの作品は、さみしさについての物語であり、だから憎しみについての物語であり、だから、愛についての物語だ。

第一話、母親に捨てられた男の子。「大切なものに代えがあるのはさみしいから、好きなものは世の中にいっこでいい」という男の子。けれど好きな子に好きと言えず、「嫌われるなら好かれなくてもいい」から、「僕と結婚出来ないならもう話しかけないで下さい」と告げる。そして自分を捨てた母親らしき女性を見つけ、その先端と憎しみを彼女に向けて、持っていた傘を振りかぶる。

けれど、居合わせた好きな子によって傘の向きと形状は変わり、憎しみの向きと形状も変わる。好きな子に向けて愛という傘を広げる限りは、母親に向けて憎しみという傘の先端を振り下ろすことはない。「好きなものは世の中にいっこでいい」から。「明日も会いたいと思える」好きなもの。「そんな感じの」。

第九話(最終話)、「ねぎの厚さは2ミリ以内で、水・木のハンカチはタマタマ柄」というような、「いつも通り」に厳しい夫。「この家を一人で出ていく夢」「出てったら案外楽しくやれたという夢」を見る妻は、「役に立ちたいような、突き飛ばしたくなるような気持ち」から、ある朝、夫のメガネを隠す。

そのせいでいつもの電車に乗り遅れ、次の電車が来るまでの時間を持て余した夫が、妻に語る。「妻と暮らしてから変な夢ばかり見る」と。「僕はあの家で一人でずっと一人でいて……けっこう楽しくやれてるっていう」そんな夢。「そんなかんじの」。

 

そんな感じの現実と、そんなかんじの夢と。そんな感じの愛と、そんなかんじの憎しみと。そんな感じの未来と、そんなかんじの過去と。そんな感じのさみしさと、そんなかんじのやさしさと。それぞれが夢のなかで思い描いた「そんな感じ」は、当然のように現実ですれ違う。そして、第一話と最終話が「そんな感じ」でつながれているように、すれ違いは、いつまでも繰り返される。それが、さみしい。

誰かと関わろうとするのであれば、この作品に登場する彼らのように、ときになにかを拠りどころにして、自分の「そんな感じ」と、相手の「そんなかんじ」について、言い争ったり、手を振り合ったり、語り合ったりするしかない。さみしくて、夢から覚めたあの子とは、きっと上手く喋れないけれど。