ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。

『虫と歌』とヒトと言葉と

たとえば、外見も中身もヒトにほど近いロボットのようなものができたとして。それが言う「あなたを愛しています」と、ヒトの言う「あなたを愛しています」の、それぞれの「愛」の間に決定的な差異はあるのだろうか。



『虫と歌 市川春子作品集』。収録されている短編のすべてに、ヒトに似たヒトではないモノが登場し、ヒトと、ヒトではないものとの関わりが描かれる。今回は、表題作「虫と歌」について。

ヒトである兄は、昆虫を「造る」ことを生業としている。兄に造られた昆虫である弟の”うた”と妹のハナ、もう一人の弟シロウ。兄弟たちは、見た目をヒトに似せ言葉を覚えさせ、ヒトにカモフラージュすることで、ヒトの暮らす環境に入り込み、昆虫として生き残るための実験として造られている。

ところで、もし現実に見た目がヒトと同じ且つ言葉を話すヒトではないも存在があったとして、ヒトとしての僕は、それと僕の間にあるべきであろう隔たりを認識できる自信はない。身なりを整えることや言葉を覚えることというのは、ヒトが社会という環境に出ていく過程と同じだからだ。ヒトも、環境に適応するために擬態している。



再び、冒頭の問い。

たとえば、外見も中身もヒトにほど近いロボットのようなものができたとして。それが言う「あなたを愛しています」と、ヒトの言う「あなたを愛しています」の、それぞれの「愛」の間に決定的な差異はあるのだろうか。

ロボットの言う「愛」も、人の言うそれも、言葉であるという点で完全に同じものだ。「愛」というものが現実にあるのだとしても、それが言葉で表現されてしまえば、その真偽を確かめることはできない。

シロウは、昆虫としての寿命にあらがえず、一般的なヒトと比べれば早すぎる死をむかえる。その間際に「恨み言を『言わない』」ことで、「ずっと海にいなくてよかった」という言葉を補完し、”うた”への愛情を表現する。”うた”もまた、「文句のひとつも『言わない』」ことで、「生まれてよかった」という言葉を補完し、兄への愛情を示唆している。

伝えるために言わないという方法を、特に言葉を覚えたてのシロウでさえ使っているのは、言葉の不全性を象徴している。



ラストシーンでの、おそらくはクライアントからの電話が鳴り響くなか、妹のハナも失ったであろう兄のモノローグで、彼は「昆虫実験」に対する絶望を吐露する。「たかが昆虫実験」と思えない兄は、死んでいくものに対し、崇高な目的、大いなる目的を語ることで、兄自身にとっての存在意義を、つまり対象を愛しているということを証明しようする。しかし、兄は彼らに対して「言葉を尽くして」伝えるという行為に絶望している。

言葉で伝えた内容が届いたかどうかというのは、送り手側と受け手側それぞれが自ら判断することであり、その判断は、両者の間でイコールというわけではない。だから”うた”の、死の間際の「ちゃんと愛してくれた」という言葉を聞いていても、兄自身がそう判断しない限り、望みは絶たれたままなのだ。



この作品は、ヒトは言葉をコミュニケーションの手段としているゆえのコミュニケーション不全から逃れることはできない、という寓話である。しかしこの作品を体験することで、作者の内に溢れるなにものかの存在を確かに感じ、それがなんなのかは分からないけれど、自身の内にも存在するモノであろうという期待が生まれる、というコミュニケーションが成立しているとも思う。

それを確認するために、結局こうして言葉を使うという絶望もつきまとうが、それでも”うた”が「もっと話をしたかった」と言ったように、伝わらなくとも、話し続けるということも、ひとつのカタチなのかもしれない。



ところで、私生活において他人から情緒的な面に関して「言ってくれなきゃわからない」という趣旨の要請を何度か受けたことがある。でも、言わなきゃわからないということは言えば事足りるということだ。その真偽を確かめることができずとも、言えば事足りるということだ。

言葉にするだけで事足りるのなら、誰も兄のような苦悩を抱えるはずがない。それができないから、自分のなかにあふれる感情をどうにかして排出しようと、ヒトは言葉以外の様々な方法を試みているのではないだろうか。

たとえば、物語。たとえば、うた。