ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。

『放浪息子』はどこまでも

今からちょうど10年前に、『放浪息子』の第1巻が発売された。それから今日まで、二鳥修一を見続けた。巻を重ねるにつれ、彼の身体的な成長にともなう骨格や肉付きの変化が、迷いのない(ように見える)美しい線によってみごとに、だから残酷に描かれて、女の子の服を着た二鳥修一の姿に違和感を覚えるようになった。

正確に言えば10巻を超えてから、もっと正確に言えば10巻の68ページで二鳥真穂と並びたつ彼を見てから、二鳥修一の身体的な男性性が明確に意識され始めて、僕はそれからずっと彼の行く末を、物語の行く末を憂いていたのだ。

 

二鳥修一は男性としての自分の体の変化や、女の子の服を着る機会の増えた高槻よしのと対峙するうち、「ぼくはいつまで(女の子の服を着るのだろう)」と、これまでとこれからの自分に思いを馳せて、最終巻で「私小説風のフィクション」として、自分のことを原稿用紙に記し始める。「これはぼくの記録だ」と。

それ以降、二鳥修一が書いた文章によってストーリーが牽引されるようになり、登場人物による会話はおのずとその数を減らし、『放浪息子』という作品が整理され集成されていくという印象、つまり物語の結びが始まっているという印象が深くなる。

「記録」を読んだ末広安那の「シュウがもうすぐ死んじゃうみたいな気がしたの」という台詞に、だからその点で強く同調し、「死んじゃやだ」と流した彼女の涙は、「終わって欲しくない」という僕の涙を代弁した。

「終わって欲しくない」のは、二鳥修一にかけるべき言葉を、僕がまだ持たないからだ。ずっと彼を見守り続け、ぼんやりと思うところはあるのだけれど、それを表現する言葉を僕はまだ持っていない。かといって『放浪息子』という物語の終幕によって、二鳥修一の生き方に何らかの意味が付与されることも、その内容に関わらず受け入れられる気がしていなくて、だからまだ終わって欲しくはなかったのだ。

 

最終話、男の子になりたかった高槻よしのの流した諦めと決意と感謝の涙と、女の子になりたかった二鳥修一の「女の人になりたい」という告白で、物語は幕を閉じた。しかし残り3ページ、「記録を書く」という二鳥修一の思いが繰り返される。

そして最終ページ、「これはぼくの記録なのだ」というモノローグとともに描かれた原稿用紙の束。そこに記された彼の「記録」のタイトルは、『放浪息子』第1巻の第1話のタイトルだった。

 

二鳥修一にかけるべき言葉を僕はまだ持たない。『放浪息子』を飲み込む準備ができていない。けれど、最終巻の最終ページから第1巻の第1話へと繋がれたこの架け橋によって、なんどでも反芻することができる。『放浪息子』はいつまでも読み返すことができる。『放浪息子』はどこまでも一緒に歩いてくれる。

幸せ、あるいは不幸せを形容するための物語として落着させず、ただの「記録」として残すというこの結末に、僕は本当に感謝している。さあ、また1巻から読み始めよう。