ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。

『町でうわさの天狗の子』を「自分だけは助けてやれる」理由とは

いつもと同じ平素な時間のことを、日常と呼ぶ。その始まりは、とても小さな範囲でしかない。一歩踏み出せば、そこはもう非日常だ。

たとえば母親とふたりでいる空間のような、安心を約束してくれるその小さな小さな日常を拠点として、非日常である外の世界にふれながら、日常と呼ぶことのできる範囲を少しずつ広げていく。通う学校にいる気の置けない友人も、もとは別の日常を拠りどころにしていた他人であり、少しずつ広がるそれぞれの日常を重ね合わせることで、お互いを自身の日常の中に組み入れていくのだ。

 

 さて、以前「『町でうわさの天狗の子』の強固な日常」という記事で、「天狗や言葉を話す動物といった、僕にとっては非日常である存在を普通のこととして扱うこの作品の日常は、その点をもって僕の日常の上位に置かれる」という趣旨のことを書いた。「その強固な日常が壊れたときの衝撃は、僕の日常が壊れたときのそれよりも大きなものになるだろう」と。

この物語の日常は、どういう結末を迎えたのだろう。

 

”鬼の宝”と戦うために”天狗の力”を使い、体の一部が狐になってしまった秋姫は、さらに自分のなかから現れる”黒い狐”を抑えこむため完全な天狗へと変化し、そして魔界であるとされる”天狗道”へ堕ちてしまう。しかし、時間軸が存在しない天狗道の外から、おそらくは何十年もの時間をかけてタケルが作った錫杖を持つ、瞬と眷属たちに助けられ、秋姫は元の世界へ帰ることができた。天狗の力は、天狗道のなかにすべて置いて。

念願の「普通の女の子」になった秋姫は、以前のように学校に通い友人たちと過ごすが、その顔は晴れない。なぜなら、不安だからだ。

秋姫は、普通の女の子として過ごせる日常を、まだ持っていない。友人たちにとっても、家族にとっても、それぞれ日常にいた秋姫は天狗の子としての秋姫であり、だから秋姫は、普通の女の子として過ごせる日常を、まだ持っていない。

最終話、哀しげな顔の秋姫に、瞬は「好きだぞ」と語りかける。それは、普通の女の子としての秋姫にとっての日常に自分がなるという宣言だ。名前を呼んで、その存在を肯定することで、彼女にとっての安心を約束する場所になるという宣言だ。

秋姫は、なにかあったら瞬のところへ帰っていけばいい。そうして、粉々になった自分の日常を、瞬を拠点に少しずつ取り戻していくことができるだろう。

 

瞬が「知っていると思うがな」と前置きしながら、秋姫が狐になったときでもなく、天狗になったときでもなく、天狗道に堕ちたときでもなく、このタイミングで「好きだぞ」と声をかけたのは、秋姫の拠りどころとなるべき時期を計っていたのではないだろうか。もしも、秋姫が普通の女の子ではなく天狗になるという結末だとしても、瞬は同じタイミングで、同じ言葉をかけたのではないだろうか。

そして同じころ、モミジと栄介も「たまにこうやって私といて楽しそうにしてもらえますか」「俺はモミジ殿といるときはいつでも楽しいぞ」いう会話で、お互いの日常を重ね合っている。栄介は続けて「好きな女がこの世で一番強くて、自分は何ができるわけでもないのに、なんで、自分だけは助けてやれる気がしてくるんだろうな…」とひとりごちる。

強くなくても、特別な力はなくても、それでも同じ日常を過ごそうという想いが誰かの安心になるなら、それが、自分だけは助けてやれるということなのかもしれない。

 

ということで、『町でうわさの天狗の子』という作品がすばらしい結末を迎え、僕の新たな拠りどころのひとつとなった。なんて素敵で、なんて豊かな物語なのだろう。大好き。大好き。