ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。

『千年万年りんごの子』という神話に結ばれた約束と果実

生まれてまもなく寺の縁側に捨てられたという過去をもつ雪之丞は、大学を出てすぐに、雪国のりんご農家に婿入りする。慣れない農作業や、田舎特有の他人との距離の近さに戸惑いながらも、農家の婿としての生活を積み重ねていた。

冬のある日、妻の朝日が風邪をひいて寝込んでしまう。そんな彼女に、土着の神として”おぼすな様”と呼ばれる木に実ったりんごを食べさせてしまう雪之丞。

村には、「嫁立て」と呼ばれる十二年に一度の人身供犠があった。おぼすな様のりんごを食べた村の既婚女性のひとりを、おぼすな様が嫁として「連れていく」のだ。あるできごとがきっかけで、その風習は六十年前に絶たれたが、おぼすな様は禁忌として祭られ続けていた。

そのりんごを食べてしまった朝日。彼女が連れていかれることを諦められない雪之丞は、雪国の閉じた村でひとり抗い始める――。

 

養い親にはよくしてもらった雪之丞だが、実の親に捨てられたという心許なさは拭い去れずにいた。それが、「いつもにこにこ笑顔の優等生」で「誰にも嫌われないよううまくやるんだ」という彼の生きかたの根となった。

しかし、妻の朝日が失われようとしている今、「事実を知ることが恐ろしいから何事も深追いすることなく、いつもいつも諦めて」という生きかたを振り返り、自分の寄る辺となるべき朝日を、朝日の寄る辺となるべき自分を「今回ばかりは諦めきれるか」と立ち上がる。

だが、朝日の父親は雪之丞に、「朝日はもうあんたの嫁でねえ、おぼすな様の嫁っこさなった」という言葉を向ける。朝日を奪おうとする神に、村に、雪之丞の怒りのフタが開く。おぼすな様から距離を置くため、雪之丞の養い親が暮らす東京へともに戻ろうと朝日に迫る。でなければ、おぼすな様を切ると。

ふたりは東京へ向かう。おぼすな様から逃げ出した雪之丞の頭には、あるギリシャ神話がよぎる。オルペウスの神話。毒蛇に噛まれて死んだ妻を取り戻すため、冥府に入る男の話だ。『千年万年りんごの子』という物語を読む僕の頭にも、ある神話がよぎる。オイディプスの神話。父を殺し、母との間に子をなした男の話だ。

 

朝日の父親から「お前はもう朝日の嫁ではない」と告げられ東京へ逃げ、その後ある理由により朝日とともに村へ戻った雪之丞は、今度はひとりで東京へ帰ることを求められる。しかし、「朝日には会わせない」と言われながらも、雪之丞は村に残る。朝日の夫であることを認められず、それでも村にとどまる雪之丞は、りんごの子あることしかできない。

朝日の家の畑には、”国光”という品種のりんごを実らせる、ひときわ立派な木があった。朝日の祖父が植えたというその木について、朝日の父親は「自分はこの木さ学校出してもらったー」と語る。「オレだけでね。うちの子だぢ全員だ」と。朝日たちは、この村に住む者たちは、みな「りんごの子」なのだ。

りんごの子としての雪之丞の父親は誰か。土地を統べるおぼすな様だ。母親は誰か。おぼすな様に、嫁として連れていかれる朝日だ。だから、朝日を奪おうとする神に対する雪之丞の怒りは、「お前のことは神様仏様にもらったと思ってるよ」と言われて育った雪之丞にとっての、遅れてやってきたエディプス期だ。

 

雪之丞は、おぼすな様に”怒り”という火を放つ。「今そちらへ行くから、そちらで話そう」と、自らの体もまた、その炎の中へ投げ出した。たどり着いた「そちら」には、朝日がいた。時間の概念があやふやで、ずっと昼間であるという「そちら」側で、雪之丞は朝日に「僕と代わろう」と持ちかける。僕が「そちら」に残るから、朝日は「あちら」に帰るのだと。そう言う雪之丞の右手と首筋が、爛れているのに朝日は気がつく。

お見合いのとき、雪之丞を「斜に構えた年下の男の子」と評したものの、「だども」と見初めた白く頼りない手と首筋が赤く爛れているのに気づいた朝日は、彼がどうやって「そちら」へ来たのかを悟る。赤い火傷の爛れに、彼の変化と決意を悟る。

ここへ至り、父と母とが入れ替わる。外界との接触を絶つ、保護された被嚢としての「そちら」側をなすおぼすな様が母となり、雪之丞を「あちら」側へ帰すため、そこに風穴を開けんとする朝日が鬼という父となる。雪之丞は、朝日とある約束を交わし、ひとり「あちら」側へ戻る。

村へ戻った雪之丞は、その後も村で暮らすことを選択する。「誰にも嫌われないよううまくやるんだ」という生きかたをしてきた彼が、禁忌に手を出し村を騒がせた張本人として、村の人間から疎まれたとしても、朝日と約束したとおり、「村の行く末を見届ける」ために村にとどまることを選択する。父を焼き母と離れた雪之丞に、初めて芽生えた自我である。

 

それが父親であるとは知らぬまま彼を殺してしまったオイディプスは、その事実を告げられたのち、自らの両目をつぶし放浪の旅に出たという。雪之丞の目の、その片方が残ったのは、「見届ける」ため村に暮らすのだという、自我の芽生えの賜物か。

雪之丞が朝日にりんごを食べさせることに端を発した物語は、朝日が雪之丞にりんごを食べさせることでその幕を下ろす。『千年万年りんごの子』とは、雪之丞に芽生えた自我が、実るまでの物語だ。