ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。

『水域』に落ちるしずくで湛えられていく、私という人生

給水制限の続く猛暑の夏休み、中学校の水泳部に所属する川村千波は、炎天下のグラウンドでの練習中に、暑さで気を失ってしまう。目を覚ますと、そこは雨の降る河原。水を欲していた千波は川へ飛び込む。ふと向こうへ目をやると、そこには小さな村が見える。自分の名を呼ぶ水泳部の顧問や部員たちの声が聞こえ、再び目を覚ますと、そこはもとのグラウンドだった。

「……あれって夢だったのかな」

その後も千波は、「水」をきっかけに夢の世界へ何度となく入り込む。「なんとなく初めてじゃないような」気がする村で出会うひとりの男の子と、「どこか出会った気がする」老人と触れ合うことで、千波の目を通じ、彼女の家族や彼女の暮らす土地の過去が明らかになっていく――。



この作品でメインテーマとして扱われている「ルーツ」について、つまり「自分はどこから来てどこへ行くのか」というような命題に対しては、若いうちから積極的に取り組むべきだと考えている。会社に行ったり学校に行ったりを繰り返すことで過ぎていく日々のなかで、自分のルーツについて考えるきっかけを与えてくれるという意味でも、『水域』は私にとって特別な作品だ。

ダムの建設によって沈んだ村をルーツに持つ千波と、その家族を中心として物語が進むが、千波が自分の知らない自分の過去に興味を抱くのに対し、母親は、あるできごとが理由でそれを掘り起こすことに消極的だ。

上巻最後のモノローグ。

……全部 水に沈めてしまえばいい
きれいに 覆い隠してしまえばいい
好きだった場所も 忘れられないことも 全部
まるで初めから 何もなかった場所みたいに

(漆原友紀『水域』上巻 P243-246)

けれど過去というのは、なくしたつもりでいても、捨てたつもりでいても、忘れたつもりでいても、そこからは逃れられない。なぜなら生きている限り、自分の足で、その上に立ち続けることしかできないからだ。ならば自らそれを掘り下げ、自分がなんの上に立っているのかを確認しておいたほうが得策というものである。

「自分のルーツについて考えることは、若いうちから積極的に取り組むべきだ」というのはこれが理由で、そのきっかけとなるこの作品を、全国の小中学校の図書館すべてに蔵書する準備に今すぐとりかかるべきだと考える。さあ早く、今すぐに、さあ、さあ。



下巻では、千波は家族とともに過去とふれあい、「わたしはここから来た」と思うに至る。

最後のモノローグ。

……今も おばあちゃんの奥底には 水に沈んだ村があって
それはこの頃 時折水面に現れる
きっとそれは 母さんにも おじいちゃんの中にもあって
決して消えることはない
そしてそれは あの夏から わたしの中にも生まれた
深い深い底のほうに ぽっかりと
今はもう無い場所を湛えた 水域―

(同下巻 P231-233)

過去とは、まさに自分のなかに堆積していく水のようなものではないだろうか。下巻の最後で千波のおばあちゃんに顕れたような症状は、その水を自らのなかに留めることができなくなり、溢れでてしまうことによって起こるようにも思える。

人生というのは、日々落ちる滴で湛えられていくその水域を漂うことかもしれない。