ホンダナノスキマ

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『あんずのど飴』はふたりで過ごした日々の証

あんずのど飴

あんずのど飴

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高校生のころ、将来のことをしっかり考えましょうとよく言われた。僕は、そうしたほうがよいのだろうなと思いつつも、将来の自分ではなく、今の僕のことを考えるので精一杯だった。僕とはなんだろうとか、そういったことだ。

当時、自分を託しながら聴いた音楽や読んだ本が今でも心に深く残っているのは、だから当然のことだ。けれど、現在の日々を送るなかでふと高校生活を思い出すのは、バスの座席の匂いだったり冬の朝の空気だったりする。

「高校生の僕」は当時聴いていた音楽や読んでいた本のなかにいるけれど、「僕の高校生活」はバスの座席や冬の朝にあるのだ。



さて、冬川智子の『あんずのど飴』。

田舎町の高校に入学した水沢要と佐野はるかは友人同士だ。

彼女たちも「今の私」を様々なものに託していて、水沢要は「冬野さほ」や「かわかみじゅんこ」だったり、佐野はるかは「スカートの丈」や「彼氏」だったりで、そういった差異がふたりのすれ違いを生み、少しずつお互いの距離を広げていってしまう。

最終話、クラス会で10年ぶりに再開した彼女たちは、あるもののなかに「確かにふたりで過ごした時間」を見つける。このラストシーンが、とてもナチュラルに僕を感動させてくれた。



また、『あんずのど飴』は携帯サイト「ヒトコト」で配信されていた同名作品を単行本化したものだ。1コマずつ読み進めるケータイマンガとして連載されたこの作品は、同一サイズのコマが1ページに4つ均等に配置され、その形式が最後まで続くという構成で本になった。

コマの大きさや形による演出がされていないということだけれど、それが作品の味として機能している。

友人関係や家族関係や学業関係などの悩みに溢れ、けれど淡々と同じペースで過ぎていってしまう学校生活というものが、この形式によってうまく表現されていると感じた。



ということで、飴をガリガリ噛むように漫画を読むのも楽しいけれど、最後まで同じペースでゆっくり溶かすように読む漫画もよいものだった。

『あんずのど飴』は、そういう漫画の楽しみ方を教えてくれる良作だ。