読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。主に漫画の感想です。

『惡の華』のおしまいによせて

惡の華(11)<完> (講談社コミックス)

惡の華(11)<完> (講談社コミックス)

 

押見修造の漫画作品である『惡の華』が、この十一巻をもって完結した。最初の単行本から一貫して「この漫画を、今、思春期に苛まれているすべての少年少女、かつて思春期に苛まれたすべてのかつての少年少女に捧げます。」とカバーに記しつづけた作者が紡いだ物語の、その結末にはなにが描かれていたのか。

 

再会するふたりは海辺で

春日は、あの夏祭りの夜を最後に、これまで会うことのなかった仲村さんの居場所を知る。海のある小さな町で、母親と暮らしているという彼女に、常磐さんとともに会いに行く。その町の砂浜で再会した仲村さんに、春日は問う。「あのとき ぼくを突き飛ばしたのはなぜ?」。

”あのとき”とは、夏祭りの櫓の上で、包丁とライターを握りしめながら、ふたりで灯油をかぶった夜のことだ。仲村さんは「さあ わすれた」としらを切り、「キミは つきあってるの? その人と」と、常磐さんとの関係性を問い返す。「うん」と答える春日に対し、こう続ける。「よかったね そうやってみんなが行く道を選んだんだね」。

春日が、再び問う。「…じゃあ 仲村さんは?」。

捲られたページには、応えのかわりに仲村さんのある表情が描かれる。読者は、この表情を知っている。仲村さんの、この目を知っている。

 

彼女の瞳のその先に

ボードレールの詩集『惡の華』の挿絵でも有名な、オディロン・ルドンというフランスの画家がいる。漫画『惡の華』で繰り返し描かれる「眼球をもった黒い花」は、一巻で作者が記しているように、ルドンの作品をアレンジしたものである。

彼のいくつかの作品と、漫画『惡の華』に登場する黒い花は、同じ目をしている。そして、「…じゃあ 仲村さんは?」と問われた彼女が春日に見せた表情も、同じ目だ。

オディロン・ルドン/押見修造『惡の華』"

上のほうに裏返る、仲村さんの眼球の先にあるもの。それは自分の頭のなかだ。仲村さんは頭のなか、自分の心を覗きこむ。目の前の春日という現実、あるいは春日の選んだような「他の人と同じ道」という現実ではなく、自分の頭のなかに果てしなく広がる内的で心象的な世界で視界を満たす。

では、彼女が見ようとしない現実とはなにか。裏返る眼球が見たくないものはなにか。それを下へ向けたときに、見えるものはなにか。

 

啓蟄に蠢く

三巻の「あとがたり」で、作者は「思春期というのはつまり、何も考えてない”小学生”と、分別がついて自意識の鎖がほどけた”大人”の[間の?]闇の期間ってことだと思います」と語っている。

第二次性徴に合わせ、下腹部から発生する身体的で本能的な欲求が、次第に心を支配する。下のほうから伸びる鎖に縛られて、首は徐々に折れてゆき、目は徐ろに臥してゆく。そうして、下を向いたときに見えるのは、たとえば春日なら、納まる場所を探して固く固く聳えるモノと、自分の暮らす小さな町の地面だ。

己の立つ場所と、己に勃つモノを根拠に形づくられようとする自己、それを覆い飾らんとするのが自意識である。その自意識という「皮」を鎖で縛り、下腹部からの欲求に支配された自己を覆い固めて、外からは見えない闇の中で、心の形を葛藤する。それが思春期だ。

佐伯さんは”中学編”で、河原につくられたパンツの館のなかで、「春日くんの行く先は… 行き止まりだよ… 『向こう側』? そんなものあるわけない」「して 春日くん しなきゃいけないの みんなして生きていくの ここで… この町で」と、服を脱ぎ捨て春日に迫った。みんなと同じ「皮」を被り、「この町」という日常で生きていくという選択を迫った。

そうすることで、春日に対して「向こう側」なんてないという現実を、「この町」という日常を受け入れることを促した。大人になることを促した、と言い換えてもいい。

 

毎日偽善!

一方で仲村さんは、下腹部からの欲求に支配される心と、それを覆い隠そうとする「皮」としての自意識を罵倒した。「キレイごとばっか吐きやがってどいつもこいつも腹の中は! せっくすせっくす! 結局くそせっくすがしたいだけ!!!」と罵倒した。

心を支配されているくせに、それ邪まなものであるとして、「キレイごと」という自意識で覆い隠す。仲村さんにとってその行いは、ただ邪まであることよりも、よっぽど邪悪だ。仲村さんが罵倒したのは、そうやって「この町」という日常を暮らす偽善者たちだ。

キレイごとという「皮」を剥いて、心の深渕を見たい仲村さんは、下腹部へ向かう視点では、心と向き合うことができないから、だから性を遠ざける。偽善者たちの営みによってでき上がった、「この町」という日常の「向こう側」を、だから望む。

「…じゃあ 仲村さんは?」と問われた彼女が春日に見せた表情は、「みんなが行く道を選んだ」春日とは別の方向、自分の心の奥深くと向き合いながら生きていくという表顕なのだ。

 

神の左手、春日の右手

この「あのとき 僕を突き飛ばしたのはなぜ?」から「…じゃあ 仲村さんは?」という問答のはじまりに、仲村さんは春日のほうへ右手のひらを向けている。それに呼応するように、春日も彼女のほうに右手のひらを向けている。

思い返せば、中学校の教室に惡の華を咲かせた帰り道、仲村さんの左手を握っていたのは春日の右手であった。櫓の上で、灯油をかぶりライターを持つ仲村さんの左手を握っていたのも、春日の右手であった。その夏祭りの夜、親から外出禁止を言い渡されていた春日の家の、その玄関を破壊して、彼をむかえに来た仲村さんは、こう言って彼の右手を引いたのだ。

「さっさと来いよ 空っぽ人間」

連れ出した廃墟のなかで、仲村さんに服を剥がれ、肌に爪をたてられ、それでも「キミを救いたい」と宣う春日に対し、仲村さんは、床に横たわる彼を見下ろし、彼女のなかの絶望を吐露する。「向こう側なんて無い こっち側も無い 何も無い クソムシも変態も無い もう……何も無い」。なぜなら。

押見修造『惡の華』

(押見修造『惡の華』六巻 P150-151)

翻り、春日は常磐さんの隣に立つときに、彼女の右側を選ぶから、常磐さんの手を握るのはいつも春日の左手だ。

九巻で、常磐さんの手を自身の左手でとりながら、惡の華を握りつぶした春日の右手。再会した砂浜で、その右手を差し向けられた仲村さんは、その手を眺め、その手を嗅ぎ、その手にふれて、「みんなが行く道を選んだ」春日に「よかったね」と声をかける。

そのまま立ち去ろうとする仲村さんを、春日は砂浜に投げ倒す。砂の上に横たわる彼女を見下ろし、彼のなかの希望を紡ぐ。「僕は何もつかまえられない 必死で手を伸ばしても 触れたと思ったら離れてく 辿りついたと思っても また始まる だから それでも」。

押見修造『惡の華』

(同十一巻 P66-67)

先に示した六巻P150-151と同じ構図で描かれているのは、これが、廃墟のなかで吐露された仲村さんの絶望と、夏祭りの櫓の上で、ひとりで行こうとした彼女への、春日からの返答だからだ。

仲村さんは、その春日を殴り倒す。応戦する春日と彼女は、縺れ合いながら波の間へ潜り込む。止めに入った常磐さんを、春日が海へ放り投げる。

常磐さんを巻き込んだ、このふたりの精神的で肉体的な関わりは、端的に言って性交だ。この関わりが、堪らなくエロティックに見える僕の胸に、感動と諦めの波が、かわるがわるに押し寄せる。これを性交にたとえて、それがふたりのあいだで遂げられているという感動と、そこから離れることのできない僕の下腹部への諦めが、かわるがわるに押し寄せる。波打ち際で戯れる三人のその顔を、仲村さんのその顔を、僕はきっともう、忘れられない。

そして三人は、日のほとんどが落ちた暗い砂浜に横たわる。仲村さんの右手と、つながれていない春日の左手というカットが挟まれる。このコマに、つながれていない右手と左手に、僕はふたりの新たなつながりを感取する。仲村さんは春日に対し、これからは違う方を向いて生きていく春日に対し、これからは、その右手を常磐さんに対して差し出すであろう春日に対し、「さっさと来いよ空っぽ人間」と言いながら彼の右手を引いたあの日とは違う言葉を、餞別として口にする。

「二度とくんなよ ふつうにんげん」

 

かの華は惡から悪へ

こうして、あの夏祭りから再会の海辺までの日々の隙間は、その環を閉じる。お互いの生き方を知り、それを受け入れあったふたりから、思春期の鎖もほどけて落ちる。だから、この第54話の日没が、『惡の華』という漫画作品の結末である。春日を主人公とした『惡の華』という物語は、ここで終わりだ。真っ黒に塗りつぶされたページをもって、第54話はその幕を下ろす。

続く第55話の最初のページには、同じく真っ黒に塗りつぶされた背景に、白抜きの「悪の華」という文字が浮かんでいる。「惡の華」ではなく、「悪の華」という文字が。第54話で終わりを迎えた『惡の華』という物語のかわりに、第55話から始まる「悪の華」という物語。それは誰の、なんの物語か。

夢を見る春日、笑う常磐さん、その手を右手で握る春日、乳を飲む赤子、キッチンに立ち子供に微笑みかける佐伯さん、街のなかを歩く少女、遊園地で遊ぶ家族。第55話以降に描かれているのは、それぞれの日常だ。そのなかのどこかに、読者はきっと読者自身を見出すだろう。その目の前に横たわる巨大な日常を暮らす、読者自身を見出すだろう。

そして最終話には、漫画『惡の華』の第1話が、仲村さんの視点で描かれている。この文章で、仲村さん佐伯さん常磐さんには敬称をつけ、春日のことは春日と書いてきた僕は、春日の視点でしかこの物語を追っていない。ゆえに、たとえば夏祭りの夜からの、仲村さんの生の辛苦を想像せずに――正直に言えば想像してなお、春日が彼女に押しつけた「僕はうれしい 仲村さんが消えないでいてくれて」という感情を、共有してしまう。

だから、最終話に描かれている仲村さんの苦痛を目のあたりにし、その上で問われる最終ページの「何してんの?」は、僕が選び暮らしているこの日常を揺さぶる。あのころ、僕はなにをしていただろうか。今、僕はなにをしているだろうか。

 

それは金色に照らされている

”中学編”で、ともに日常へ戻ることを春日に拒まれた佐伯さんは、こう言っていた。「本当に向こう側に行けるなら 私だって行きたかったよ でも この世界は どこまで行ったって灰色なんだよ」。

たとえば思春期のころの僕が、今送っているこの人生とは違う選択をしていたとして、だから現在、今とは違う暮らしをしていたとして、それでも、その違う僕の目の前にある日々は、やはり日常である。春日や仲村さんや佐伯さんや常磐さんにとっても、それは同じだ。なにかを選択してしまえば、その先には日常しかない。「向こう側なんて無い」。なぜなら「どこへ行っても 私は消えてくれないから」。

それを指して佐伯さんは、「この世界は どこまで行ったって灰色なんだよ」と、納得して生きていくことを春日に促したのだ。僕も今、目の前に横たわる灰色の日常に、納得して生きている。

けれど、仲村さんとは違う道を選んだ春日が、いつか夢に見たように、目を閉じて自分の心と向きあえば、あの日摘みとった悪の華びらが、いつでも頭上を舞っていることに気がつくだろう。大切なのは、そうして自分の心と向き合い、問い続けるのをやめないことだ。「何してんの?」と。

 

仲村さんは、再会の海辺に立って、金色に輝く夕日を指して「この町は海の中に日が沈むの それでまた あっちの海から日が昇る ず――っと ず―――っと ぐるぐるぐるぐる キレイ……でしょ?」と春日に告げた。毎日まいにち、休むことなく繰り返されるその営みを、「キレイ」と告げた。

僕の暮らす日常が、出口もない終わりもないなにもない、休むことなく繰り返される灰色なのだとしても、それは金色に照らされている。