ホンダナノスキマ

本棚の隙間です。

『町でうわさの天狗の子』の強固な日常

「年上好きのお母さんは夏祭りの夜に450歳年上のお父さんと恋に落ちた。」という冒頭の一節。

500年近く生きている天狗のいる世界、つまり読者のそれとは違う世界が描かれているのだろうということが、最初のページで理解できる。

天狗と人間のハーフである主人公の秋姫は、側溝にはまったトラックをひとりで持ちあげて救出するような怪力の持ち主だったり、人に化け人語も操る狐や狸といったお山の眷属見習いが登場したりと、読者の暮らす日常のルールからは逸脱した設定で物語が進んでいく。

読者と同じ「普通の人たち」も登場するが、興味深いのは「普通ではない人たち」に対する「普通の人たち」の反応だ。

たとえば側溝に嵌ったトラックを一人で持ちあげて救出した秋姫を見ていたまわりの人々は、「あらー秋姫ちゃんじゃが」「よかったー今学校帰りなんねぇ」「あんた手大丈夫なん」「あられ持っていかれ」などと口にする。また、秋姫の同級生たちは、人に化け人語も操る狐と一緒に海に遊びに行ったり、さらには彼に恋愛感情を抱く女の子まで現れる。

作中の普通の人たちにとって、天狗やしゃべる動物といった普通ではない人たちと共存することは普通のことであり、だからこの作品は、普通の人たちと普通ではない人たちがそれぞれの存在を受け入れた上で、一緒にご飯を食べたり、困っている人がいたら助けたり、笑ったり泣いたり、恋をしたり振られたり、文化祭に励んだりフォークダンスにヤキモキしたりするという、そういう物語なわけだ。



もし、僕の過ごす毎日に天狗やしゃべる動物が現れたら、それは非日常のできごとだと言えるだろう。

そういう、僕にとって非日常であるはずの毎日を、普通のこととして過ごす彼らの日常は、その点を以って僕自身の日常の上位に置かれる。僕が非日常として区別しなければ自分の日常を守れないようなできごとや人物を、普通のこととして受け入れている彼らの日常は、僕のそれより強固に見えるのだ。



さて、現時点での最新刊である9巻において、主人公の秋姫は「彼女の中に潜む天狗の力」を抑えきれなくなりそうな気配を見せている。具体的に言えば、腕に獣のような毛が生えてきたりとか。

もしも秋姫が心身共に天狗となって、今までの生活を変化させざるを得ないようなことになったら、天狗としての秋姫をまた日常とするために、現在過ごしている日常を一旦壊す必要があるはずだ。

僕の日常よりも強固な彼らの日常が壊れたときの衝撃は、僕の日常が壊れたときのそれよりも大きいであろうことは、想像にかたくない。



1巻に収録されたお話の中で、天狗の子としての自分に悩んでいた秋姫は「もしあたしが天狗でミドリちゃんが仲良くしてくれなかったら……」と、親友のミドリちゃんにその心情を吐露している。非日常への恐れ。

それに対するミドリちゃんの返答は、「大丈夫だよ あたしと姫ちゃんなら そのへんでいきなり会っても仲良くなれるよ」というものだった。

続けて、いかにも天狗の姿形をした秋姫に対して、学校帰りのミドリちゃんが「あんたんちもこっちなの?」と声を掛けるという想像上の描写が挟まれる。

これは、秋姫が彼女の中に潜む天狗の力を抑えきれなくなったときに壊れてしまうであろう現在の日常のその先にある、さらに強固な日常の一場面ではないだろうか。

作者は、この描写と「そのへんでいきなり会っても仲良くなれるよ」というミドリちゃんの言葉で、この作品の日常性は(その種類が変わるとしても)失われることはないということを、最初から示してくれていた。



ということで『町でうわさの天狗の子』、ハラハラしつつもどこかで安心しながら読むことができる大好きな作品だ。